イントロダクション

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平成11年5月29日未明、元パチンコ店店員森田(旧姓関)昭(61歳)が埼玉県本庄市内のアパートで亡くなった。その翌日未明、元塗装工川村富士美(39歳)が、パジャマ姿のまま「追われている」などと意味不明のことをつぶやきながら市内の病院を訪れた。病院からの通報で駆けつけた本庄警察署の警察官は彼を警察署に連れて行った。森田昭も川村富士美も市内で金融業「国友商事」を営む八木茂の知人であり、八木が昔からやっているカラオケパブ「マネキン」(平成7年までは「レオ」と呼ばれていた)の常連客であった。さらに森田の妻森田考子はレオの元ホステス、川村の妻「美穂」ことアナリエ・サトウ・カワムラはマネキンのママであった。それだけではない。彼女たちはいずれも八木茂の愛人であり、森田と川村には「妻」を受取人とする合計31口、死亡保険金10億円余りの生命保険がかけられていた。

川村を保護した本庄警察は119番通報した。やってきた救急車には警察官も同乗した。そして、疾走する救急車のなかで、警察官は川村に質問をしつづけた。

   薬を飲まされたのは、誰に飲まされたの。
   ――その女の子だけどその社長から貰って。
   何て言う女の子なの。
   ――タケマユミ。
   それはどういう薬なの。
   ――酢の錠剤だ。
   保険入ったんか。
   ――入りました。
   無理矢理か。いやいや……。
   ――借金があるから。
   誰に借金があるの。
   ――八木。
(本庄警察作成のテープ反訳書)

川村に「酢の錠剤」を飲ませたという「タケマユミ」とは、八木茂のもう1人の愛人「マミ」こと武まゆみである。彼女もレオのホステスであった。最近は昼間は国友商事の事務員として働き、夜はその隣で「小料理マミー」(平成8年までは「赤ちょうちん」)を経営している。川村と森田はこの店にも出入りしていた。

川村の搬送先である深谷赤十字病院の当直医師は、「薬物中毒の疑い」があるとして、胃洗浄などの措置を施したが、入院の必要はないと判断した。しかし、警察は川村を入院させるように病院に依頼し、病院はこれを受け入れた。さらに警察は、病院に川村と八木茂やその愛人たち――武まゆみ、森田考子、アナリエ・サトウ・カワムラ――とを面会させないように釘を刺した。そして、この日のうちに、武の自宅と彼女が経営する「小料理マミー」店内、アナリエが経営するパブ「マネキン」を捜索し、森田昭の遺体を葬儀屋から押収した。容疑は「被疑者不祥に対する殺人・殺人未遂」だ。

森田の遺体を押収した本庄警察は、その翌日から早速武まゆみ、森田考子、アナリエを連日警察に出頭させて、取調べを行なった。

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「保険金殺人疑惑」

7月になると、マスコミは「埼玉保険金殺人疑惑」をいっせいに報道した。森田昭の遺体は埼玉医科大学法医学教室主任教授齋藤一之によって司法解剖され、死因は「高度の低栄養状態に伴う化膿性胸膜炎・肺炎」とされた。しかし、マスコミは「司法解剖の結果、薬物中毒の疑いがあることが分かった」などと書いた(週刊現代99年7月31日号、週刊朝日99年7月30日号)。川村は深夜にパジャマ姿のまま「追われている」などと意味不明の言葉をつぶやきながら病院に駆け込み、その後に採取された彼の尿からは覚せい剤が検出された。彼の「症状」は明らかに覚せい剤によるものであった。川村の意識は勿論しっかりしており、搬送された深谷赤十字病院の当直医は、入院の必要はないと判断している。川村は病院に駆け込む直前までマネキンの駐車場の掃除や草むしりをしていたのである。しかし、マスコミは川村が「意識不明の重体」に陥っていたと報じた(週刊現代・前掲、サンデー毎日99年8月1日号)。前年に発生した「和歌山毒カレー事件」と「非常に良く似ている」「第2の和歌山カレー事件か」などという論評が新聞、雑誌、テレビを通じて繰り返された。

この事件の4年前にやはり八木の知人でレオの客であった佐藤修一(45歳)の死体が利根川の導水路で発見され、自殺として処理された。佐藤の妻であったアナリエに約3億円の生命保険金が支払われていた。マスコミは、これを「疑惑の原点」だとした(週刊ポスト99年8月13日号)。佐藤と森田を含め八木の周辺には「不審死」を遂げた人が5人もいるなどと書いた雑誌もあった(サンデー毎日・前掲)。

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逮捕

平成12年3月24日本庄警察は八木茂、武まゆみ、森田考子、アナリエ・サトウ・カワムラの4名を2件の偽装結婚(公正証書原本不実記載・同行使)の容疑で逮捕した。法律の定めによると、逮捕された被疑者は最大23日間拘束することができ、検察官はその間に被疑者を起訴すれば良い訳である。3月24日の時点で本庄警察は森田昭の殺人事件や川村富士美の殺人未遂事件の容疑も固めていたわけだから、これらの容疑で一遍に逮捕状を取ることは十分に可能であった。しかし、それでは拘束時間が23日間に限られてしまう。だから、警察と検察は逮捕容疑を小出しにした。すなわち、まず偽装結婚事件、次に川村富士美殺人未遂事件、そして森田昭殺人事件という具合に容疑を小出しにして、逮捕、勾留、起訴を繰り返していった。こうして、森田昭殺人事件が起訴される5月30日までの66日間4人の容疑者は土日も祭日も休むことなく、毎日朝から晩までときには深夜を越える時間帯まで警察官と検察官の取調べを受けつづけたのである。

平成12年5月30日までに、2件の偽装結婚事件と川村殺人未遂事件、森田殺人事件の起訴は完了し、捜査は一段落した。八木は66日間の調べの間一貫して殺人を否定しつづけた。

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自殺とトリカブト

捜査官は5年前に亡くなった佐藤修一のことについても4人を厳しく追及した。

6月20日、武は、佐藤の自殺に自分が直接関わっていたことを告白した。八木が佐藤に「自殺したことにして保険金を騙し取ろう」という計画をもちかけ、佐藤もその気になって、平成7年6月3日の夜に自分が佐藤を車で坂東大橋付近まで送った;その後佐藤は水死体で発見された、というのである。そしてさらに、武は衝撃的な話しをした。6月30日、彼女はこの「偽装自殺」が行なわれる前年まで約2年間にわたって、八木の指示で佐藤にトリカブトの根っこを刻んだものを饅頭やあんパンに仕込んで佐藤に食べさせていた、と供述したのである。本庄警察は、この二つの話しのうち、トリカブトの話しに飛び付いた。武の供述の裏づけをとるために、八ヶ岳山麓の美濃戸別荘地に捜査員を派遣してトリカブトの自生を確認し、埼玉医科大学法医学教室にホルマリン漬けで保存されていた佐藤の臓器を取り寄せて、トリカブトの成分があるかどうか鑑定を依頼した。しかし、それとともに、警察は、溺死の可能性も検討するために、佐藤の臓器に利根川のプランクトンが含まれているかどうかについても鑑定依頼した。

このころから捜査官は3人の女性に対する連日連夜の取調べを再開しただろうことは想像に難くない。しかも、正式に逮捕したわけではなく、彼女たちは起訴された事件の公判が開始されるのを留置場で待っている状態であるから、23日間という期間の制限もない。しかし、いつ・どの程度の取調べがなされたのか、その詳細は不明である。

武の話しは、トリカブトを少しずつ与えていたが、最終的には佐藤は自ら利根川に飛び込んで溺死したというものである。けれども、警察は、この最後の部分を決して受け入れなかった。「佐藤は1人では歩けない状態だった」「誰かが突き落としたんだろう」と言って武を追及した。しかし、武は「自殺」の話しは本当だと言って聞かず、警察に「私は嘘をついていません」という上申書を出したりして抵抗しつづけた。

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「あとはマミちゃんに任せるから」

8月13日、佐藤の臓器から微量のトリカブト成分が検出されたとという科捜研の中間報告が届いた。そして、その3日後には、今度は佐藤の腎臓と肺から利根川に棲息するプランクトンが検出されたとの回答も届いた。いずれの鑑定結果も武の話しを裏付ける。腎臓からプランクトンが出たということは、直接の死因が溺死であることを裏付けるのである。しかし、このプランクトン検査の結果について、警察は、腎臓が他の臓器と一緒にホルマリン漬けにされていたために汚染されたもので、溺死の裏づけにはならないと断定した。そして「トリカブト殺人」の可能性をさらに追及することにした。しかし、武は「嘘はついていない」と言いはり、佐藤は利根川に飛び込んで死んだ、自分が車に乗せて行ったのだから間違いないと言い続けた。

武と警察との間でこのようなやり取りが続いている間に、森田考子が佐藤修一についてさまざまな出来事を「思い出した」と言いはじめた。彼女は次々に「上申書」を書き、警察官と検察官はその内容をまとめて調書にしていった。8月1日から10月23日までの間に上申書20通、警察官調書9通、検察官調書2通が作られた。

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「あんパンの絵が浮かびました」

佐久間佳枝検事は平成12年10月22日と23日の2日間かけて考子の話しを調書にまとめた。そして、その翌日武まゆみを取り調べることにした。佐久間は、考子の供述を要約して、平成7年6月3日に、武らが佐藤にトリカブト入りのパンを食べさせて殺害し、その死体を利根川に流したことは「科学捜査の結果」間違いないことである、と告げた。そして、このまま否認を続けると武も「八木と同じ」になる、すなわち死刑になると言った。佐久間は、武に尋ねた。

    「生きている佐藤さんに最後に食べさせたものは、何?」

武は、佐久間の前で目を閉じて1時間近くも考えていたと言う。

     ***すると、頭の中にパッとあんパンの絵が浮かびました。そのあんパンは、ビニール袋に入った比較的薄い感じの安っぽいあんパンでした。***私が佐藤さんにトリカブト入りのあんパンを最後に食べさせたことを一気に思い出しました。私は、目を開けて、検事さんに「最後に食べさせたのはあんパンです」と答えました。検事さんは「それはいつのこと」と言いました。私はディナーショーの日だと思い出しました。(武平成12年11月7日付検察官調書)

平成7年6月3日渡辺荘で「いつもの2倍」の量のトリカブトを入れたあんパンを佐藤に食べさせたことを武は「思い出した」。しかし、その前後の出来事を思い出すことはできなかった。「その辺の前後の記憶だけが、スッポリとなくなっている」――武は日記にそう書いている。しかし、この日以降連日繰り返された佐久間検事の取調べの間に、武は、事件の詳細を次々に語るようになった。11月中には、八木が佐藤をトリカブトで一気に殺す計画を立てたいきさつから、6月1日別荘に4人が集まり殺害計画の謀議をしたこと、そして6月3日佐藤にトリカブト入りのあんパンを食べさせて殺害し、その日の夜に佐藤の死体に革ジャンなどを着せて、それを利根川に捨てたという一連の行動に関する詳細な供述を完成させた。平成12年12月12日(渡辺荘事件の起訴の前日)の日記に武はこう書いている。

    私は、自分で記憶にふたをしてしまう程の嫌な、そして、とても悪い事をしていた。今、その記憶のふたをあけて、よみがえらせる事ができて、本当に良かった。それもこれも、みんな佐久間検事のおかけだ。***私は、忘れていた事を思い出させてもらって、とてもさっぱりして、すがすがしい気持ちになれた。ありがとうございます。

アナリエは平成12年11月16日から渡辺荘事件の自白を始めた。それまでの供述は「嘘」であり、刑事から「聖也[ひとり息子]に恥ずかしくないのか」と説得されて、本当のことを言う決心がついたという。アナリエの自白は武の自白を追いかけるように徐々に詳細なものになって行った。しかし、武があんパンの中にし込んだものについては「毒」という以上の供述はできなかった。

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公判

さいたま地検は、12月13日、4人を、平成7年6月3日渡辺荘で佐藤修一をトリカブト毒によって殺害したという事件(「渡辺荘事件」)で起訴し、続いて同月25日佐藤修一の保険金約3億円を騙し取った保険金詐欺の罪で起訴した。偽装結婚による逮捕以来9ヶ月間の身柄拘束を利用して、捜査はついに所期の目的を達した。ある捜査官は「今回の事件は、科学捜査8割、取調べ捜査2割だった」と述べた(毎日新聞2000年11月22日)。しかし、われわれが検察官から開示を受けた供述調書の数は、武が202通、考子が187通、アナリエが144通という膨大なものである。4人を逮捕した時点で116件と言われていた鑑定件数は、渡辺荘事件による逮捕の時点で324件と言われている(毎日新聞同日付)。この鑑定に関する証拠の全容はわれわれには全く判らない。ほとんどの証拠の開示を検察官が拒否したからである。

平成13年3月30日さいたま地裁301号法廷で第1回公判が開かれた。3人の女性は全ての訴因について有罪を認めた。八木茂は1人全面的に否認した。

八木の公判は愛人たちのそれと分離され、さいたま地裁第2刑事部(裁判長若原正樹、陪席裁判官大澤廣、同田中邦治)で「集中審理方式」――一定の準備期間をおいて、その後一気に連日開廷して証人尋問などを行なう審理方式――で行なわれることになった。平成13年9月4日から翌14年5月28日までに、検察側証人32人、弁護側証人13人の尋問が行われた。

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「記憶にふたをしていた」

検察側の立証の柱は3人の女性の証言、とりわけ武まゆみの証言であった。

彼女は、逮捕されて1ヶ月過ぎた頃から獄中で日記をつけていた。それは毎日の取調べの様子を克明に記録していた。この大学ノート10冊分の日記(「武ノート」)によれば、武が佐久間検事から「このままでは死刑になる」と脅され、かつ「自白すれば命は助ける」という約束をされ、これに基づいて風邪薬事件や渡辺荘事件の自白をしたことは明らかであった。また、彼女は佐藤が坂東大橋から利根川に飛び込んで自殺したという記憶をもっていたが、佐久間検事からそれは「科学捜査の結果」と矛盾し、佐藤殺害を否認し続けると「八木と同じ」=死刑になると脅されて、渡辺荘事件の自白をしたことも明白である。

武は、法廷では、佐久間検事から刑の話しをされたことはないと言って、自分の日記の記載を否定した。しかし、渡辺荘事件の記憶がなかったことは認めた。八木から「佐藤さんは自殺したんだ」と繰り返し言われて洗脳されたために、恐ろしい事件の「記憶にふたをしてしまった」;佐久間検事の取調べによって自分の記憶に疑問を持ち、一生懸命に事件を思い出そうと努力しているうちに、さまざまな出来事の断片が音声や影像として蘇ってきた。武はそう証言した。

武の後に証言台に立った森田考子とアナリエも、渡辺荘事件の記憶が当初なかったことを認めた。考子は「渡辺荘の玄関から先は真っ暗だった」「川の中からガラスのかけらを拾い集めるように、少しずつ話しをすることができた」と証言した。それは彼女が断片的な事実を次々に上申書に書いていったことと符合する。アナリエも、証言の最終段階に至って、渡辺荘での出来事を忘れていた時期があったことを認めた。

1980年代後半から90年代前半にかけて、全米各地で成人女性が子供の頃に父親から性的虐待を受けていたことを突然思い出したとして、父親を訴える事件が続発した。これは心理カウンセラーのカウンセリングを受けるうちに、カウンセラーから「性的虐待の記憶を抑圧している」と示唆された患者が、突然に影像や音声を伴うフラッシュバックを体験して、徐々にその実体が自分の性的虐待体験に結びつくものであることを自覚していくというものである。両親が「悪魔儀式」に参加している光景を思い出したと報告する人も少なくなかった。この「抑圧された記憶」と呼ばれるものは、実は、心理カウンセリングのプロセスで作り上げられた「偽りの記憶」ではないかと疑いをもつ心理学者が増え、冤罪を主張する父親を支援する団体もできた。

日本の捜査官が行なう取調べが非常に濃密で過酷なものであり、取調べを受ける被疑者の記憶に変容をもたらす危険があることは、既に供述心理学者が指摘していることでもある。われわれは、供述心理学者でありアメリカの記憶研究にも詳しい東京都立大学助教授仲真紀子に武まゆみの供述調書を送って、彼女の渡辺荘事件の記憶の信憑性について鑑定してもらうことにした。仲の鑑定結果は、武の「記憶」はいわゆる「抑圧された、偽りの記憶」と呼ばれる特徴を備えており、その信憑性は非常に低いというものであった。

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「『記憶にふた』は嘘でした」

われわれは、検察側の立証が終わった段階でこの鑑定書をわれわれの証拠の1つとして提出し、仲真紀子の証人尋問を行なった。裁判所は仲の鑑定書を証拠として採用した。すると、検察官は武まゆみの再尋問を要求してきた。われわれはそれに強く反対したが裁判所は再尋問を許した。他のすべての証人の尋問が終わった平成14年5月22日武まゆみは再び証言台に立った。尋問したのは佐久間検事である。

     武:私は,捜査段階のときからずっと,前回の証人尋問のときにも言えなくて,隠していたことがありました。本当に申し訳なかったと思ってます。だから,今日はそれを告白しに来ました。

     佐久間:それは,どういうことですか。

     武:私は,佐藤さんに,大さじ1杯分のトリカブトをあんパンに詰めて,それを食べさせて殺したということは,今日まで忘れたことは1秒たりともありません。

         ***

     佐久間:忘れていなかった,1秒たりとも忘れていなかったと言いましたね。

     武:はい。

     佐久間:それは,あなたがずっと言っていた記憶にふたをしていたという証言が嘘だったという,そういう意味ですか。

     武:はい,そうです。本当に申し訳なかったと思ってます。

武のこの証言は、彼女自身が書いた膨大な量の日記、そして前年秋に26回にわたって行なわれた証言を根底から覆すものであった。

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死因をめぐって

われわれは集中審理が始まる以前から佐藤修一の臓器に関してプランクトン検査が行なわれているのではないかと考えていた。その点について検察側に何度も問い質したが、検察官は「したとも、していないとも答えない」という返答を繰り返した。転機が訪れたのは検察側の鑑定人の1人で「溺死の専門家」上野正彦医師の尋問が近づいた平成13年暮れのことであった。裁判所でときどき行なわれる「進行協議」の席上で、われわれは「上野医師はプランクトン検査の内容を知っているのではないか」「もしもわれわれの質問に上野さんが『見た』と答えたらどうするんですか」と検事に迫った。検事は「上野医師がそれを見ているのかどうか確認する」と言った。そして、年が明けた平成14年1月9日、検察官は、上野医師がプランクトン検査結果を見ていることが分かったと言い、それをわれわれに開示した。検査の結果は、佐藤の肺と腎臓から利根川に棲息するプランクトンが検出されたというものであった。

法医学の教科書によると、死体を川に投げ込んでもプランクトンは川の水と一緒に肺までは届くが、心臓が止まっているので血液循環がなく、肺以外の臓器まではとどかない。したがって、肺以外の臓器からプランクトンが発見されたときには、川の水に入った時点で心臓は動いていたことになる。すなわち、その死体の死因は溺死ということになるのである。検察側は、佐藤の解剖をした齋藤教授が佐藤の臓器を同じポリバケツの中でホルマリン漬けにして保管していたから、腎臓のプランクトンは肺などにあったものが混入したのであって、溺死の証明にはならない、と主張した。われわれは、検査を行なう前に科捜研の技官がホルマリンに漬かっていた部分を取り除いたはずであるし、肺から発見されたプランクトンの構成と腎臓から発見されたそれとは大幅に異なるから「汚染」ではないと反論した。

風邪薬事件についても死因は最大の争点であった。この事件は「風邪薬を凶器とした犯罪史上前例のない事件」と報じられた。風邪薬の成分であるアセトアミノフェンの副作用として有名なのは肝臓障害である。しかし、森田昭は肝障害で亡くなったのでないことははっきりしている。森田は化膿性胸膜炎と肺炎を起こして死んだのである。検察側は、北村聖助教授の意見書などに依拠して、アセトアミノフェン→好中球減少→胸膜炎・肺炎という理論を主張した。われわれは、アセトアミノフェンによって好中球減少が起こる可能性は非常に低く、それによる死亡例は1件も報告されていないこと、むしろ森田はアルコール依存症にかかっており、アルコール依存症患者の栄養失調や肺炎は相当の頻度で起こり得ることを指摘し、慶応大学医学部の加藤眞三講師の意見書や各種の医学文献を証拠として提出した。

そもそも、八木の指示で森田や川村に連日風邪薬を飲ませたという話しは、「実行犯」武まゆみの証言しかこれを裏づける証拠がない。彼女の供述は佐久間検事による死刑の威嚇や死刑を求刑しないという約束によるものであって証拠能力はない。そして、森田の臓器や毛髪から検出されたアセトアミノフェンは、八木が森田から頼まれて彼に届けた風邪薬を森田が「痛み止め」として濫用したことによって説明がつく。われわれはそう主張した。

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死刑判決

平成14年10月1日、さいたま地方裁判所第2刑事部は、全ての訴因について八木を有罪と認定し、彼に死刑を宣告した。われわれの主張はことごとく退けられた。

武と検察官の間に「異様に緊密な状況と度を越した気遣いが看取される」「捜査段階において、日記の記載そのままでないにせよ、これに関連する量刑をテーマとした何らかの会話が捜査官との間でなされた疑いは濃厚と言わなければならない」。そう言いながら、裁判所は、取調室の中で武と佐久間検事とのあいだで具体的にどのようなやり取りがあったのか、何も認定しなかった。そして、捜査中の出来事は法廷での証言の証拠能力に影響を与えないと断定した。「記憶にふたをしていたというのは嘘でした」という平成14年再尋問での武証言は、死刑の恐怖から解放されて、真相を証言したと見るのが「自然な見方」だと裁判所は述べた。腎臓からプランクトンが発見されたとしても「汚染の可能性を否定できない」から溺死とは断定できない。判決はそう言い、かと言って、佐藤の臓器からトリカブトの成分が検出されたという鑑定結果も、佐藤がトリカブトで殺害されたことの決め手にはならないと付け加えた。結局、判決は科学的な鑑定結果によってではなく、武まゆみの証言によって佐藤はトリカブト毒で死亡したと認定したのである。

風邪薬事件についても、裁判所は武まゆみの証言に全面的に依拠した。森田の死因や川村の「症状」について、われわれが提起した疑問を検討した形跡はほとんど見られない。森田の胸膜炎や肺炎の原因がアセトアミノフェン以外の原因である可能性について裁判所が深刻に考えた様子は、すくなくとも判決文からは全くうかがえない。

八木茂とわれわれはこの死刑判決に対して控訴を申立てた。

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