終章 裁判とメディア

司法とメディアの自立

 

 司法が犯しうる過誤のなかでも「誤まった死刑判決」ほど深刻な過誤はない。かつてこの国で起こった4件の死刑誤判事件(免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件)はいずれも終戦から間がない時期のものばかりであり、当時の「ずさんな捜査」が原因であるという論評をされることが多い。

 しかし、誤判の原因を分析した文章を読むと、そこには一つのはっきりとした構造があるのを読み取ることができる。それは、身柄拘束状態を利用して徹底的に自白を追及する取調べと、その自白をはじめとする供述証拠を重視して、それと矛盾するかに見える物的証拠や状況証拠を軽視する裁判官のダブル・スタンダードである。

 先に指摘したように、この構造は、今日においても何一つ変わることなく日本の刑事裁判の中枢に確固たる地位をしめているのである。それを変革しようとする裁判所内部の動きは決して主流とならなかった。メディアは、「凶悪事件」の容疑者が逮捕されるたびに、50年前に免田榮が逮捕されたときとほとんど変わらない報道をし、判決が下されるまでそれは続けられる。要するに、4件の死刑誤判事件は、この国の司法やメディアの関係者にとっては何らの教訓も生まなかったのである。

 イギリスでも、1970年代初頭に爆弾テロ事件の「犯人」として終身刑を受けた被告人たちが、その後の再審で次々と無罪とされた事件があった。その誤判原因を調査するなかで自白の問題がクローズアップされ、政府の委員会の勧告に基づいて、取調べに弁護人が立ち会う権利を認め、取調べの全過程を録音することを義務付ける法律が制定されるに至った。日本では誤まった死刑判決が4件も明らかになったにもかかわらず、政府が調査をすることもなかったし、取調べの録音・録画を義務付ける法改正もなかった。なにも変わらなかった。司法もメディアも、何も変わらなかった。

 しかし、そろそろわれわれは変わらなければならないのではないだろうか。社会的なプレッシャーに堪えられる自立した強い刑事司法とジャーナリストの自由が保障された真の「報道の自由」を確立するために、われわれは変わるべきではないだろうか。「本庄保険金殺人事件」を八木茂という1人の男の悲劇として終らせるべきではない。

 

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