終章 裁判とメディア

「報道の自由」はあるか

 

 われわれは新聞・雑誌・テレビの記者から何度も取材を受けた。彼らの最初の質問はいつも同じだった――「八木さんの様子はどうですか?」。

 逮捕以来マスコミから姿を消した八木の動静をなんとかわれわれから聞き出して、それを報道したいというのは理解できなくもない。しかし、いつもそればかりというのはうんざりする。八木は殺人をしていないと主張し、現に公判で証人尋問が進行中なのである。公判終了後の質問が「拘置所での八木さんはどんな様子ですか?」というのではがっかりもする。せめて証言の意味を尋ねたり、鑑定書の問題点の説明を求めるような記者はいないものか、と何度も思った。

 事件の説明を受けたいというので時間を作って記者と面談したことも何度もある。プランクトン検査の話、武証言の問題点、風邪薬の薬理などについてこちらは説明する。しかし、それが記事になることはまずない。

 平成14年の正月休みに、ある雑誌の記者が高野の自宅を訪れた。彼は彼女を自宅に招じ入れ、キッチンテーブルで1時間ぐらい武ノートやプランクトン検査をはじめとするこの事件の証拠を解説した。記者は熱心にメモをとっていた。高野は、「私の話したことのほとんどは記事にならないことは承知しています。でも、せっかく来られたことでもあるし、あなた自身には分かっていただけるだろうと思いますので、お話をしたわけです」とやや皮肉っぽく言った。記者は丁寧な口調で「ありがとうございました。ご期待には沿えないかもしれませんが、出来るだけの努力はします」と言った。その1週間後に発行された記事をみると、なぜか八木茂の写真の横に横山やすしの顔写真が並べられ、記事のタイトルは 「八木茂は痩せて横山やすしソックリに」 というものだった(週刊文春2002年1月24日号)。記事の最後の方に武ノートと彼女の自白の信憑性に関する高野の談話が少し載っているのは、彼にとって「画期的な成果」と呼べるものであった。

 「『偽りの記憶』について勉強したい」というので、ロフタスや仲真紀子の論文をコピーして数人の新聞記者に配布したことがある。そのうちの1人が後日事務所を訪れロフタスの著書を読みたいというので、『抑圧された記憶の神話』という訳書を貸してあげた。それからもう1年半はたったと思うが、「偽りの記憶」を記事にした新聞は一つもない。貸した本も戻ってこない。

 最高裁判所の判例によれば、「報道の自由は、憲法が標榜する民主主義社会の基盤をなすものとして、表現の自由を保障する憲法21条においても、枢要な地位を占めるものである。報道の自由を全うするには、取材の自由もまた不可決のものとして、憲法21条によって保障されなければならない」(最大決昭44・11・26刑集23‐11‐1450)。

 それはもともと「言論の自由市場」を保障し、多様な言論がそれぞれ競い合う中で人々が自由で多様な情報を享受することを確保しようというポリシーに根ざすものである。最高裁はそのような状態が「憲法の標榜する民主主義社会の基盤」であると言っているのである。

 日本のジャーナリストたちは本当に自由に取材し、自由に報道しているのだろうか。「凶悪事件」の被疑者が逮捕され「自白」したという報道はどのような取材に基づいているのだろうか。単純に刑事から「自白した」と教えられ、刑事が語る「供述」や取調室の中の被疑者の様子を、そのまま活字にしているだけではないだろうか。記者は刑事に供述調書そのものを見せろとなぜ要求しないのだろう。刑事は「プライバシー」を盾にそれを拒否するかもしれない。しかし、自白したことやその供述内容を記者を通じて公表することはプライバシーに反しないのか。それがプライバシーに反しないと言うのなら、その根拠である調書を見せることだってプライバシーに反しないはずではないか。調書の内容を点検することもしないままに、刑事の話だけで供述の内容を記事にするというのは、鑑定人が「間違いない」というから「間違いない」という判決の論理とどこか似ている。

 一度「凶悪犯」の報道が山のようになされて、社会全体に1つの雰囲気が作られてしまうと、記者は自分が直接取材した結果であっても、その雰囲気に逆らうような記事を書かない。前に紹介したわれわれの経験はそのことを示している。メディアが作り上げた世論にメディア自身が迎合するのである。社会的なプレッシャーを感じるのは裁判官だけではなく、ジャーナリストもそれを感じているのではないだろうか。

 しかし、「報道の自由」は出版社やテレビ局という会社のためにあるのではない。報道をする個人のためにあるはずである。個人の表現者の自由が保障されず、上司や編集者やディレクターの統制が幅を利かすのであれば、それは「報道管制」が敷かれた状態で仕事をしているのと同じではないだろうか。この国の現在における「報道の自由」はジャーナリストの自由ではなく、「ジャーナリスト」という名称を与えられた個人を「従業員」として雇っている会社の自由に過ぎない。

 

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