終章 裁判とメディア

メディアの影響力

 

 判決文に現れた、裁判官たちのこの特異な思考パターンと証拠に対するダブルスタンダードは何に由来するのだろうか。それは判決文からは分からない。判決文というのは裁判官が自分の結論の正当性を説明するために書く文章に過ぎないからである。その中に裁判官の心証形成のプロセスが正確に表現されているなどと考えるのは幻想である。自ら連邦控訴裁判事であったジェローム・フランクはこう言った。

彼[裁判官]はその望ましいと思う判決から出発し、次いで遡って、若し彼の報告するF[事実]と一致する口頭証言があり、その報告されたFに彼が適正なR[法規範]を適用するものとすれば、彼の判決を論理的に正しいものと見せてくれるようなFとRとを見積もって、公表するのである。してみれば、果たして彼が、当該証言を実際に措信したか否か、つまり彼の報告する事実が、彼の確信する事実と一致するか否かは、大して重要ではなくなる。換言すれば、彼は何ら挑戦を受ける恐れなしに、彼の認定する事実を「でっち上げ」、これにより「秤をごまかす」ことができる。彼が正しいと考えることの利益のために、或はその他何らかの理由により彼が自分の確信を誤り伝えていないかどうか、何人にも判らないのである。(フランク1970[1949]p268)

 

 裁判官たちが「八木茂は死刑」という結論を彼らの「望ましいと思う判決」と考えた原因はどこにあるのだろうか。それには多分複数の要因がかかわっているだろう。

 最高裁判所の人事当局者は、独立が保障されているはずの裁判官に対して、任地や給与、昇進という事柄によって露骨な差別待遇を行なっている(安倍2001pp214‐237;秋山2002pp10‐41)。

 取調べと自白について人間的な対応を示す裁判官が主流派になり得なかった背景には、こうした職場環境が影響を与えていることは明らかであろう。この事件を担当した裁判官たちも無罪判決を出した場合の自分たちへの職場内での評価を意識しただろうことは容易に想像がつく。そして、この事件の担当裁判官たちの肩にはこの官僚的な統制力のほかに非常に大きな社会的プレッシャーがのしかかっていたことが指摘されなければならない。

 この事件は、警察が強制捜査に着手する半年以上前から「保険金殺人疑惑」として喧伝され、マスメディアは世間の好奇心をあおった。警察が風邪薬事件で八木を逮捕するずっと前から、佐藤修一の「溺死」を疑問視する報道がなされ、佐藤修一の殺人こそが「この男の犯罪の原点」だと報じられた。根拠もなしに八木の周辺で不審な死を遂げた人が多数いるとか、狙いをつけた人物を借金漬けにして「人間養豚場」に住まわせ、じわじわ殺すという「手口」が、まことしやかにテレビや週刊誌を通じて毎日のように全国に広められた。捜査は、警察がメディアを後追いする形で進むという異常な展開を示した。裁判がはじまるずっと前に、メディアによって八木茂が愛人を道具として利用した保険金殺人事件の「主犯」であり、極刑は当然であるという集団的確信が出来上がってしまっていたのである。

 裁判がはじまってもこの情況に変化はまったくなかった。審理が進むにつれて記者の傍聴は少なくなった。われわれが武まゆみの反対尋問をするころには傍聴席にはほんの数人しかいなくなった。新聞地方版には武の証言の不自然さをそのまま伝える記事が載ったりはしたものの、それが全国の紙面に載ることはなかった。テレビのワイドショーは相変わらずだった。判決言渡しの1週間前には武まゆみの「自白」をデフォルメした「再現ドラマ」が放映されたりした。彼女の自白が「偽りの記憶」であるという鑑定がなされたことや、彼女が証言を大幅に変更したことを報じたテレビや週刊誌は一つもなかった。

 裁判官というと「厳正」「清潔」「雲の上の人」というイメージを持つ人が相変わらず多い。そういうイメージからすると、裁判官がマスコミの影響を受けるなどということはあり得ず、彼らは世間の評価など気にかけずに、一切の外部情報を排して、証拠のみによって事実を認定していると考えられるということになるのだろう。しかし、実態は必ずしもそうではなさそうである。

 平均的な裁判官はおそらくわれわれ弁護士よりも丹念に新聞を読む。誰がどんな判決をしたかということを非常によく知っている。良く知っているということは日ごろからそれを気にかけているということである。自分の担当する事件の新聞記事にも当然目を通す。さいたま地裁第2刑事部の書記官室に「本庄保険金殺人事件」関連の新聞記事の切りぬきが置かれているのをわれわれは何度も目撃した。裁判官個人を論評した新聞や雑誌の記事がでると、誰がどんな理由でそうしているのか分からないが、そのコピーが庁舎内で回覧されるということもあるらしい。

 平成13年7月はじめ「週刊新潮」は、この事件の裁判長若原正樹を名指しで非難する長文の記事を掲載した。強盗殺人で無期懲役刑を受け仮出獄中の男が女性を殺害した事件で、第2刑事部が――死刑を選択せずに――再度の無期懲役刑を言渡した判決を「奇妙キテレツな判決」と言って批判したものだが、わざわざ若原の顔写真を載せ「純粋培養された法律バカ」とまで言っている(週刊新潮2001年7月12日号)。

 この記事はその後同誌が展開した「変な裁判官」キャンペーンのさきがけになった。この記事は庁舎内で回覧されたのだろうか。裁判長は読んだのだろうか。どのような感想を抱いたのだろうか。そして、記事はこの事件の「望ましいと思う判決」に影響を与えたのだろうか。

 われわれには分からない。一般論として言えることは、日本の職業裁判官制度には、こうした社会的なプレッシャーを緩衝する装置がないということである。前に書いたように、最高裁判所の人事当局者は裁判官の判決傾向を詳細に把握して露骨な差別待遇をおこなっている。若くして裁判長となりエリートコースを歩んでいる人にとって、マスコミから「変な裁判官」のレッテルを張られることが、ひいては人事当局者の自分の評価につながり、このままではコースから外されるかもしれないと考えることはないと言いきれるだろうか。

 日本の刑事裁判では有罪・無罪の認定も刑の決定も全て裁判官が行なう。裁判の結果は全て裁判官の一身にかかっている。そして裁判官は裁判をすることが職業であるから、1つの事件を裁いたら別の仕事に戻るというわけには行かない。自分に対する評価を維持して、裁判長から地裁の所長、そして高裁判事、できれば高裁長官という自分の将来像を必ず思い描いているはずである。そうであれば、彼や彼女の下した裁判の結果に対する社会的な評価は彼ら自身の社会的評価そのものということにならざるをえない。

 これに対して素人の集団が事件を審理して結論を出す陪審制では、裁判官は事件の結果について社会的な非難を浴びる理由がない。「陪審が決めたことだ」と言えば良い。そして陪審自体は素人の市民の集団であり、1件の裁判を終えたら解散してしまうので、裁判の結果によって自分の人生設計が影響を受けることを気にかける必要は全然ない。サザン・メソジスト大学ロースクールのローク・リード教授はこう言う。

マスコミは、警察、検察、刑事弁護士、裁判官に対し、常に存在する「犯罪問題」を解決するようにとの大衆の圧力を生み出している。これらの公務員は、大衆の行動を起こせとの要求に対して敏感となり、「犯罪に対して弱腰」と見られることを躊躇するようになる。大衆の、事実に基づかない受け止め方が証拠と合致しない場合、制度内の専門家は有罪・処罰を求める大衆の欲求に従わなければとの強いプレッシャーを感じるものである。匿名の陪審員の方が、こうした圧力に抵抗し公正な評決に達することが出来やすいのである。このように、大衆の不当な要求は、制度の中の公務員ではなくむしろ仲間の市民によって拒絶されるのである(リード1990pp63‐64)。

 

 アメリカの陪審が、マスコミが作り上げた世論から見ると「意外な」評決を下すことが時々あることは良く知られている。マクマーティン事件(1990年)、ロドニー・キング事件(1992年)そしてO・J・シンプソン事件(1995年)などが最近の代表的な例である。これらはメディアや世論からすれば「意外な評決」「誤まった評決」ということになるが、事件の証拠を丹念に検討した人からはその結論が支持されている(Shaw1990; Parloff1992; Darshowitz1997; 四宮1997)。

 証拠の採否から有罪無罪の認定、刑の決定まで全てを裁判官が決める日本の制度では、メディアが作り出した大衆の圧力を裁判官が1人で引き受けることになる。したがって、この事件のような強烈な集合的確信が出来あがっている事件で、裁判官が正しい証拠評価をするためには、非常に強固な人格が要請されることになる。いまの裁判官任用制度やその養成システムはそのような人材を育成するように出来ているだろうか。大いに疑問である。

 

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