終章 裁判とメディア

判決の思考方法

 

 この事件のように有罪か無罪かが熾烈に争われた事件の判決文には一つの常套的なスタイルがある。まず、客観的な証拠――物証、鑑定結果、検証などの物的証拠――や双方の当事者が取調べに同意した証拠書類によって、「客観的に間違いのない事実」を認定する。その後で、信憑性に争いのある供述証拠――自白や目撃者の証言――の信憑性を検討する。供述証拠の検討に際しては、その供述経過とともに、先に認定した「客観的に間違いのない事実」との整合性も分析される。その結果、訴因を直接証明する供述証拠の信憑性に疑いがない場合には被告人は有罪という結論になる。

 「客観的に間違いのない事実」の段階で被告人の有罪と明白に矛盾する事実が認定される場合――例えばアリバイや訴因と矛盾する死因――や、供述証拠の分析の結果被告人を有罪とすることに合理的な疑いが残る場合は、被告人は無罪ということになる。例えば、「浦和女店員嬰児殺事件」では、まず争いのない証拠に基づいて「基本的事実関係」として、被告人が出産するまでの経過や出産当時の状況などを認定し、次に「本件嬰時は生産児であったか」という客観的な争点の検討を行ない、一番最後に争いのある供述証拠である自白の問題を取り上げている(浦和地判平元・3・22判時1315‐6)。このスタイルは最近の判決の「定番」と言っても良い。要するに、普通の判決文における思考過程は情況証拠から供述証拠へ・客観から主観へという流れをたどるのである。

 これは裁判官が自らの予断にとらわれずに、冷静に事実を認定するためには良い方法である。結論をとりあえず棚上げにして「問題のない証拠だけでどの程度の事実が認定できるのか考えてみよう」という姿勢を持つことによって、錯綜した証拠群を立体的に整理することができる。そして、その作業を通じて最後の決め手となる供述証拠を公平にながめることができるようになるだろうからである。

 さいたま地裁判決は、この常套的な判決文のスタイルと全く異なる思考方法をとっている。ほとんど逆と言ってよい。判決は問題のない証拠によって「客観的に間違いのない事実」をまず認定してみるという作業を全く行っていない。さいたま地裁の裁判官はいきなり武まゆみの証言を取り上げることからはじめている。武の証言を「信用性が高い」と結論すると、続けて、森田考子、アナリエの証言を検討する。佐藤修一の解剖所見やプランクトン検査は最後に「その他の証拠」として触れられているだけである。情況証拠(間接事実)をまとまりのある事実群として認定している箇所はどこにもない。武の証言を信用できると判断した段階でもはや結論は出てしまっている。武証言と考子やアナリエの証言との矛盾そして物的証拠との不整合は「こういう可能性がある」、「こう考える余地がある」ということで一蹴されるか、沈黙してやり過ごしている。渡辺荘事件の記述の冒頭で武の証言は信用できるという大前提が出来上がっているので、風邪薬事件の項では、弁護側の主張や意見書、医学薬学文献に対する分析は非常に簡略なものになってしまっている。一言も触れられていないものも多い。

 要するに、さいたま地裁判決は、供述証拠である武の証言によってまず心証を固め、その心証を貫くことの妨げになるように見える他の証拠を一つ一つ取り上げて論破していくという構成になっている。それは障害物競走のようなものである。スタート地点でゴールは決まっており、あとはゴール目指して障害をひとつひとつ跳び越えて行くだけである。

 さいたま地裁判決のもうひとつの特色は、検察側の証拠と弁護側の証拠とに対するその姿勢の明らかな違いである。これまでの章の中でその例はいくつも取り上げてきたが、例えば、佐藤の臓器からトリカブト毒の成分が発見されたという鑑定結果と佐藤の肺と腎臓から利根川のプランクトンが発見されたという鑑定結果に対する裁判官の態度を比較してみよう。佐藤の臓器が摘出されてから最終的にトリカブト毒の成分が検出されたという鑑定結果が出るまでには、非常に多くの鑑定が行われている。また、斉藤教授が臓器を警察に渡してからそれが鑑定にまわされるまでに相当の時間が経過している。われわれはその経過――「保管の連鎖」――を証明することを要求した。また、機器分析の際に汚染がないことを示すブランク・データの開示を求めた。これらの要求に従うことは非常に簡単なことである。けれども裁判官はこれを拒否して、埼玉県警の科捜研の職員らが「佐藤の臓器に間違いない」「ブランク・データに異常はなかった」と証言しているからこの鑑定結果は間違いないと言う。

 プランクトンの方はどうか。肺と腎臓のプランクトンの構成の違いや腎臓にあったプランクトンはいずれも肺胞壁を通過できる形や大きさのものしかないから、汚染は考えられないというわれわれの主張に対して「たまたまそのような形状の珪藻類が検出されたにすぎない可能性もあ[る]」と言い、汚染の可能性は否定できないというのである。

 もうひとつ例をあげよう。平成7年6月下旬に八木から「漢字かな混じりの遺書」を見せられたという佐藤太代人の証言について、われわれは、彼自身「遺書とは思わなかった」と言っていることや、それまでに受け取った手紙が漢字交じりだったことなどから、その信憑性はそれほど高くないと主張したのであるが、判決は「もと郵便局員である佐藤太代人の消印に関する証言は信用性が高い」(7年前の消印の日付を言えること自体不自然ではないかという発想はそこにはない)と言ってこれを一蹴した。襟や袖口を切った革ジャンを着ている佐藤の姿を見たことがあるという、われわれの証人堀野敏和と八木茂樹についてはどうか。裁判官は「別の衣服と混同している可能性を否定できず、両名の証言をにわかに信用することは困難」というのだ(どこをどう間違えたら襟と袖口の切断されたもう1つ別の革ジャンと「混同」するのだろうか)。

 さいたま地裁判決の第3の特徴は「可能性」「あり得る」「否定されるものではない」という用語を多用している点である 。これらは弁護人の主張を排斥する文脈のなかで用いられている。弁護人が指摘する問題点について、弁護人の言う理解とは別の理解も可能であるという指摘である。これは弁護人の主張を完全には否定できないことを判決自身が認めていることを意味する。そうであるにもかかわらず、有罪の方向で説明することも可能性として残っていることを指摘して、その論点を片付けているのだ。可能性をいくら積み上げても、「合理的な疑いを超える証明」にはなり得ないだろう。裁判官たちが「可能性」によって八木を有罪にしたこと、それは彼らの意識のなかで証明責任の転換――検察官は被告人の有罪を証明する必要はなく、被告人の方が無罪を証明できなければ被告人は有罪であるということ――が行なわれたことを意味する。

 

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