一審判決(抄)

五 他の者の証言との整合性

 

弁護人は,武証言は,信頼できる他の証人の証言と矛盾しているとして,以下の諸点を挙げるので順に検討する。

1 まず,弁護人は,武証言によれば,平成7年6月3日,サンパレスに到着した際,ディナーショーは既に始まっていたとされているところ,ショーの主催者であった証人茂木佐喜子は,当公判廷において,この日のショーについて,午後5時半ころ会場が開いて客が入場し,まず食事をした後,午後6時ころからショーが始まった」旨証言し,被告人らが到着した時刻については,「客が入場していたときであるから午後6時10分前ころだと思う」旨証言しているから,武証言はこれとは矛盾すると指摘する。

確かに,武は,ショーは既に始まっていた旨証言しているものの,この日は佐藤殺害の直後で気が動転しており,ショーの内容も覚えていないし,ショーの途中で帰ったのかどうかもはっきりしないとしており,すでにショーが始まっていたとの証言も,甚だ漠然としたものであって,実際にショーがどの段階にあったなどの具体的な状況は一向に明確でない。茂木はディナーショーの主催者であるからショーの内容はもとより,その開始時刻やその後の進行状況に関する同人の証言の信用性は高いものと認められるところ,その茂木証言によれば,当日の飲食物は客の入場前に既にテーブルに用意されているので,午後5時半ころ会場が開いた後,ある程度そのテーブルに人数がそろえば客は勝手に飲食を始める状況にあったというのであり,午後6時10分前ころ会場に到着した武が,食事が始まっているのを見て,既にショーが始まっていると認識することも考えられるところであり,この点についての武証言が茂木証言と矛盾するとまではいえない。

なお,茂木証言によれば,武が本庄を出発した時間について午後6時を過ぎていたと証言している点も,武の記憶違いと認めざるを得ないが,これにより武証言全体の信用性が否定されるものではないことは明らかである。

2 次に,弁護人は,武証言によれば,ディナーショーから帰った後,鹿野と川村を「レオ」に待たせておいて,佐藤のスウェットを脱がせたり渡辺荘の掃除をしたりし,「レオ」に戻ると,鹿野から「人がせっかくディナーショーに連れて行ってやったのに,こんなに長い間放っておいて何なんだ。」と怒られたとされているのに対し,証人鹿野は当公判廷において,そのような会話はなく,待たされたのはせいぜい30分程度であると証言しているから,武証言はこれとは矛盾すると指摘する。

両証言の内容は弁護人指摘のとおりであるが,鹿野は当時「レオ」の常連客であり,本件当日は鹿野にとっては日常の一場面にすぎなかった上,飲酒もしていたと認められることにも照らすと,約7年経過した証言時においては,もともとそれほど正確でなかった記憶がさらに一層減退したということも十分に考えられるところであり,現に,ディナーショーの開始時刻が三,四十分遅れていたなどと関係証拠に明らかに反する供述している状況にもあるのであって,武との会話を忘れている可能性も否定できないものと認められる。他方,武にとっては当日は佐藤殺害の実行日であって,当日の印象的な出来事についての記憶の信頼性は鹿野に比して格段に高いと認められるが,ホステスが,客を待たせたことで不満を言われるということは,この日以外でもあり得ることであるから,武が別の日の出来事と混同している可能性も全くないわけではない。このように証言に齟齬が生じ得る理由は様々に考えられるところではあるが,いずれにせよ,上記の会話があったか否かについて武証言と鹿野証言との間に矛盾があり,事実の有無が明確にならなかったからといって,武証言全体の信用性に根本的な疑念を抱かせるほどのものではないといえる。

弁護人は,鹿野が長時間「レオ」に放置された事実はなかったとも主張するが,その鹿野自身も,30分程度待たされたことはあると供述しているのであり,鹿野が時計を見ていたわけではないことに照らすと,この「30分程度」には相当の幅があるものと認められるところ,他方で,被告人と武が鹿野を待たせていた時間というのは,死体のスウェットを脱がせ,その体を拭いたり,渡辺荘の掃除をするなどしていた時間であって,それほど長時間であったとも考えられないから,30分程度待たされたという鹿野証言と別段矛盾するものではないといえる。

3 次に,弁護人は,武証言によれば,鹿野を平成7年6月3日の午後11時半から午前零時までの間に帰した後,利根川に佐藤の死体を捨てにいったとされているが,川村は,当公判廷において,鹿野が帰ったのは別荘に向かって出発した同月4日午前4時過ぎよりも1時間くらい前であると証言しており,殺人未遂事件の被害者とされている川村が殊更被告人に有利な証言をすることは考えられない上,武を争ってライバルの間柄にあった鹿野が先に帰ったことは印象に残っているはずであるから,川村の証言の信用性は高く,これに反する武証言は信用できないと主張する。

しかしながら,鹿野も同様,川村も「レオ」の常連客であり,本件当日は同人にとって日常の一場面にすぎないこと,飲酒していたこと,証言までに約7年が経過していることなどを考慮すると,本件当日の「レオ」での状況についての川村の記憶の正確性については疑問があり,現に,森田と武が一致して被告人らが利根川から戻った際,森田と川村がカラオケを歌っていた旨証言しているのに対し,川村は,森田とカラオケを歌っていたかと言われればそういう風な感じもする旨述べるに止まり,否定も肯定もできない状況にある。川村は,時計を見ていたわけでなく,感覚的に,鹿野が帰ってから別荘に行くまでの時間は1時間くらいであったと証言しているにすぎないから,この「1時間」には相当の幅があるものというべきである。

これに対し,武は,同月1日の謀議の際,「赤ちょうちん」の閉店時間である午前零時に鹿野を帰すよう被告人から指示されていたが,当日になって被告人から「赤ちょうちん」を開けなくてよい旨言われたので,鹿野を「レオ」に誘い,午後11時半から午前零時までの間ころ,「レオ」から鹿野を帰した旨具体的に証言しているのであって,川村に比してその証言の信用性は高いと言うべきである。

この点に関する外の者の証言をみると,森田は,鹿野が帰ってから別荘に行くまでの時間について,川村とかなりカラオケを歌ったので1時間以上あったと思う旨証言しているところ,これも時計を見ていたわけでないから「1時間以上」には相当の幅があるとみるべきであって,少なくとも武証言と矛盾するものではなく,「八木がマミにあごをつん出すような感じで合図を送ったら,マミが鹿野さんに,「今日はディナーショーに行ってくれてどうもありがとう。明日,仕事早いんでしょう。」と追い立てるようにして,私に「ターちゃん,お愛想。」と言った」旨証言している点は,武が,「「鹿野さん,明日早いんでしょう。今日はどうもありがとうね。私,ほかのテーブルにチェンジするから,もう帰った方がいいよ。」などと言って,考子さんにお愛想を頼んで,それで会計して,鹿野さんを帰した。」と証言しているのと一致している。また,アナリエは,渡辺荘の掃除をした後,被告人や森田と「レオ」に戻ると,既に鹿野はいなかったと証言しているところ,これは,武及び森田の上記証言には反するが,早い段階で鹿野が帰ったという限度では武証言と一致している。さらに,森田及びアナリエは,いずれも同月1日の謀議の際に,鹿野を早く帰すことが決まっていた旨,武証言にそう証言をしている。

なお,鹿野も,「レオ」を出て自動車の所に行った際に時計を見たら午前零時か零時半だったと,武証言にそう証言をしているが,上記のとおり,本件当日の出来事に関する鹿野の記憶は相当に曖昧なものと認められる上,早く帰されたことは,同14年2月に突然思い出したというのであって,捜査段階で武が鹿野を早く帰したと供述していることを捜査官から聞かされていたと証言していることなどにも照らすと,この点の鹿野の記憶が確実なものとしてその証言を信用することは困難といわざるを得ない事情も認められるが,少なくとも武証言と矛盾しないとはいえよう。

以上のとおり,関係証拠を総合すると,川村証言が曖昧で茫然としているのに反し,鹿野を帰したのが「午後11時半から午前零時の間」という武証言には相当の根拠と関係証拠とのそれなりの整合性が認められるのであって,これを信用すべきであるということができる。

4 次に,弁護人は,被告人の長男である八木茂樹の当公判廷におけ証言によれば,平成6年暮れころから,同7年1月ころにかけて佐藤の革ジャンパーには既に襟がなかったとされていること,佐藤の栗本鐵工における職場の同僚だった証人堀野敏和の当公判廷における証言によれば,佐藤の革ジャンパーの袖口がぼろぼろだったので,周囲の者数人がそのまま作業をすると危険だと数回注意したところ,同6年の11月か12月ころ,佐藤が自分で袖口を切ったと言って示したことがあるとされていることに照らすと,佐藤を殺害した後,革ジャンパーの襟と袖口を切ったとする武及びアナリエの当公判廷における各証言は信用できないと主張する。

八木茂樹及び堀野の証言内容は弁護人が指摘するとおりのものである。しかしながら,武及びアナリエは,「赤ちょうちん」及び「レオ」で数年にわたって毎日のように佐藤と会っていた上,佐藤の革ジャンパーにはもともと襟やゴム編みにしたニットの袖口がついていたことを知っているのであるから,仮に犯行よりも以前に佐藤の革ジャンパーから襟や袖口がなくなっていたのであれば,当然そのことにきづいたはずであり,そうであれば,逮捕後,捜査官から佐藤の革ジャンパーの襟と袖口がない理由を追及された場合にも,以前佐藤が自分で切ったと説明すれば足りるはずである。にもかかわらず,武及びアナリエは一致して,佐藤の死体に革ジャンパーを着せる際に襟と袖口を切り取ったと証言しているのであって,かかる状況に照らすと,この武及びアナリエの各証言の信用性は高いというべきである。

一方,八木茂樹及び堀野は,いずれも,佐藤の死体に着せられていた革ジャンパーの写真を示されて,同じジャンパーだと思う旨証言してはいるが,同5年5月に撮影された写真(甲1350号証)によると,革ジャンパーはその時点では格別着古した状態には見えず,もとより襟と袖口は原形を保持しており,佐藤が,その2シーズン後に突然襟を切り落としたり,ぼろぼろになった袖口を切り落としたりしたというのは不可解である。本件で問題となっているジャンパーは,革ジャンパーといえば常識的に思い浮かべることができるごく平均的な色とデザインの物であり,現に,堀野は,佐藤の名前を出さずにだれの物か分かるかという質問を受けたら,佐藤の物だとは分からなかったかもしれないとも証言しているのであって,八木茂樹と堀野が別の衣服と混同している可能性を否定できず,両名の証言をにわかに信用することは困難というほかない。

5 次に,弁護人は,武証言によれば,佐藤に漢字仮名交じりの遺書を書かせた際,被告人は「借金のことを書け。」と指示したとされていることろ,遺書を見せられたとされる証人佐藤太代人は,借金のことは何も書いていなかったと証言しており,武証言はこれと矛盾すると主張する。

しかし,武は,被告人が「借金のことを書け。」と指示していたと証言したに止まり,漢字仮名交じりの遺書にその記載があったとまでは証言しておらず,同じときに作成された平仮名の遺書には実際に借金に関する記載があるのであるから,この点に関する武証言の信用性は何ら減殺されないといえる。

弁護人は,漢字仮名交じりの遺書の存在自体証拠上疑わしいと主張するが,佐藤太代人は,死亡の報を聞いて平成7年の6月20日過ぎに本庄を訪れた際,被告人から遺書だと言われて同月3日の消印が押された漢字と平仮名が混ざった佐藤の手紙を見せられたと証言しているところ,元郵便局員である佐藤太代人の消印に関する証言は信用性が高いと認められる上,消印の日付は同日の昼ころポストに遺書を投函したとの武証言とも一致しており,また,その場に同席した佐藤の弟である佐藤進の供述内容に照らしても,現在,証拠としてそのコピーが残されている平仮名の遺書以外に,佐藤の遺書がもう1通存在したことは疑う余地がない。

なお,佐藤太代人証言によれば,同人は被告人から,佐藤は末期の胃がんだったと聞いたとされているところ,関係各証拠に照らせばこれは虚偽であることが認められるが,佐藤が本当に自殺したのであれば,被告人がこのような虚偽を佐藤太代人に告げる必要はないのであって,これは,佐藤を自殺に見せかけて殺害したとする武証言を裏付ける間接事実であるといえる。また,武証言によれば,被告人は,平成7年になってから,佐藤からの最後の贈物と称して佐藤の実家にうどんを送ったとされているところ,佐藤太代人証言によれば,同年5月末ころ。現実にうどんが届けられており,この点でも武証言は佐藤太代人証言と一致しており,信用性が高いといえる。

6 次に,弁護人は,武証言によれば,佐藤が渡辺荘に住むようになったのは平成6年終わりか同7年初めころとされているのに対し,渡辺荘の大家である渡辺兼子は,長男が結婚した同6年11月の少し前である同年9月か10月ころから佐藤が渡辺荘に住んでいたと供述し,また,佐藤の弟である佐藤進は,同年秋ころ,渡辺荘に佐藤を訪ねたところ,アナリエと一緒に住んでいた旨供述しているから,佐藤が渡辺荘に引っ越した時期に関する武証言は信用できないと主張する。

確かに,長男の結婚の時期を基準にその当時の出来事を特定した渡辺供述の信用性は高いとも思えるが,渡辺の供述する同年9月か10月ころと,武のいう同年終わりか同7年初めころというのはたかだか数か月の差であり,それから供述調書が作成されるまでに約6年が経過していることに照らすと,両名の時期についての認識に数か月程度の誤差が生じたからといって敢えて異とするに足りず,さらに,渡辺は,入居に際し佐藤から挨拶があったわけではなくいつの間にか住んでいたと供述しており,他方で,武証言及びアナリエ証言によれば,佐藤は,転居以前から何度か渡辺荘に出入りしていたことが認められるから,渡辺がその様子をみたことで佐藤の入居時期を誤認したことも十分考えられる状況にある。

また,アナリエは,同6年に佐藤の弟が佐藤を訪ねてきた際,被告人に指示されて,佐藤がアナリエと夫婦として渡辺荘で生活しているように見せかけるため,渡辺荘で佐藤が自宅でくつろいでいるかのように振る舞わせ,お茶を出すなどして応対したことなどを証言しているのであって,佐藤進は,このアナリエの芝居を真に受けて,佐藤が渡辺荘に住んでいると誤認したものと認められる。

よって,渡辺兼子及び佐藤進の各供述によっても,佐藤が渡辺荘に転居した時期に関する武証言の信用性が否定されるわけではない。

7 最後に,弁護人は,武証言によれば,平成6年に被告人らが佐藤を伴って鬼怒川に旅行に行った際,宴会が終わってから佐藤にトリカブト入りの大福を食べさせたところ,佐藤が体調の異変を訴え,旅館の中で倒れて部屋で寝かされていたが,暴れ出したため,その場にいた「レオ」の従業員だった宮本志郎が佐藤におしぼりを噛ませ,武とアナリエが佐藤を押さえた,その時の佐藤の様子は,水をかぶったように汗をかいており,息が荒く,唇が紫色で,たらこ様の唇になっていたなどとされているが,これは,宮本供述及びアナリエ証言と大きく異なっており,信用することができず,佐藤殺害の証言に迫真性を持たせようとしてなされた虚偽の証言であると主張する。

確かに,このとき佐藤を介抱した状況については,武,アナリエ及び宮本の各供述がすべて相違しており,ことの真相を明らかにすることは不可能というほかないが,上記3名のほか森田証言を総合すれば,少なくとも,風呂場で倒れた佐藤を部屋に連れ戻して同行者が介抱したという事実については優に認定できるのであって,鬼怒川旅行の際,武が佐藤にトリカブト入りの大福を食べさせたという武証言の根幹が揺らぐものではない。

 

六 武供述の変遷

 

弁護人は,また,武の供述は,平成12年の最初の取調べのときから,同13年,同14年の証言時にかけて,大きく変遷しているところ,真に体験した者であれば到底記憶違いなどするはずがないと考えられる事項について供述が変遷していて信用できないと主張し,以下の諸点を指摘するので検討する。

1 まず,弁護人は,武の供述経過をみると,1回目のトリカブト採取旅行に関して,平成12年12月1日付け検察官調書では,武から被告人に対し八子ヶ峰に行けばトリカブトがあると話したとされているのに対し,公判廷における主尋問では八ヶ岳に行くという以上に細かい場所の説明はなかったと証言し,さらに,反対尋問では,被告人から八子ヶ峰を含む幾つかの場所をあらかじめ言われていたと証言しており,供述に変遷がみられるのであって,トリカブト採取旅行に関する武の証言は,捜査官からトリカブト関連書籍を示されて得た知識をもとに創作された物語である可能性が高いと主張する。

この点,確かに武の供述には,一応弁護人が指摘するような変遷があるといえるが,しかしながら,武の証言を子細に検討すると,武は反対尋問において弁護人から,詳細な行き先の特定がなければ不自然であると決めつけられたために,いったん「図書館で借りてきた本から,幾つか行こうという場所は言われていたと思う。」と証言したのであるが,更に追及されて,「多分,言われていたと思うということです。本を見たときに,トリカブトの花が咲いているとか,そんなようなことが書いてあったのを覚えているのですが,そういう話を本を見たときに八木さんとした記憶があるので,決まっていたのかもしれないと思ったのです。」と言い換えているのであって,結局,武証言によれば,八子ヶ峰という地名については,図書館から借りてきた本の中にその地名が記載されていたことが明確に武の記憶にある一方,被告人との間で本を見て採取先を検討していた際,一例としてその地名が話題に上ったこともあるために,武は,実際に被告人とトリカブト採取旅行に出かけるに当たって,目的地をどちらが言い出したのか,また,その地点として八ヶ岳というにとどまらず,八子ヶ峰という点まで出ていたのかどうかについて記憶に混乱を来したものとみることができる。したがって,この点については,もともとの武の記憶に混乱があるために,問いの在り方などによって見かけ上供述に変遷が起こったというのがことの実態と考えるべきであって,創作であるが故に不自然な変遷を遂げたものと非難するには当たらない。

次に,弁護人は,2度のトリカブト採取旅行について,その時期や,宿泊場所,日帰りだったのか宿泊を伴うものだったのかなど,真にトリカブト採取のための旅行であったのであれば到底忘れるはずのないことについてまで供述が変遷しているのは不自然であって,年に三,四回被告人と旅行をしていた武が,その旅行とトリカブトを無理やり結びつけようとしてぼろが出た結果であるなどと主張する。

しかしながら,年に三,四回という頻度で被告人と旅行をしていた武が,捜査の時点の約7年前である同5年のトリカブト採取旅行について,詳細な日付や泊まった旅館の名前などを忘れてしまったとしてもやむを得ないところであって,このことから直ちにトリカブト採取旅行に関する武証言が虚偽であるなるなどとは到底いうことができない。

そして,同6年8月のトリカブト採取旅行については,武が宿泊した旅館の特徴等を捜査官に供述し,これに基づいて捜査した結果,唐沢鉱泉という旅館の予約帳に,「049×-××-××××」という武の自宅の電話番号とともに,「埼玉 八木様 1泊2日 車」という記載があることが発見されて,被告人と武の宿泊の事実が客観的に裏付けられたのであるから,その信用性は十分に認められる。

2 次に,弁護人は,佐藤の革ジャンパーの襟と袖を切った人物について,武は,平成12年10月下旬ころの取調べの際には,アナリエが黒い服をハサミで切っている映像が浮かんでいる旨供述したが,その後,同11年下旬に至り,襟を切ったのは被告人だが,袖口を切ったかどうかについては記憶がないと供述し,さらに同年12月に入ると,袖口を切ったのは,被告人か自分のどちらかだと供述を変更し,当公判廷では,主尋問で,袖口を切ったのは被告人だと断定するに至るが,反対尋問では,結局袖口を切ったのはだれか分からないという証言になっており,この点に関する供述がめまぐるしく変遷しているという。さらに,捜査段階では,被告人か武のどちらかが革ジャンパーを広げて持ち,もう一人が袖口を切ったと述べていたにもかかわらず,当公判廷においては佐藤の腕に袖を途中まで通した状態で切ったと証言しており,この点についても供述が変遷していると指摘する。

武の供述経過は弁護人指摘のとおりであるが,佐藤の死体の死後硬直が始まっており,当初予定していたワイシャツを着せることを諦めた後,さらに革ジャンパーにも手を通せない事態が生じて,その場における発案で袖口を切り落とすことにしたという武証言の説明はそれなりに合理的であって信用できるところ,これによれば,被告人らは時間の制約はある中で行動中,革ジャンパーの袖口を切る段階では,想定外のアクシデントが続き,狼狽した末,その場の思いつきで行動していたことが窺われるから,武の記憶に混乱が生じたとしても無理はない状況にあったといえる。よって,この点の武の供述に変遷がみられるからといって,武証言全体の信用性が否定されるとまではいえない。

3 最後に,弁護人は,武証言によれば,1通目の遺書は武が,2通目の遺書は被告人がそれぞれ投函したとされているのに対し,取調べの当初は遺書が2通あったことすら供述されておらず,その後,平成12年11月末ころの取調べでは,1通目についてはアナリエか武のどちらが投函したか分からない,2通目についてはだれが投函したのか分からないという供述になっており,この点にも変遷がみられる上,最終的に自己が投函したと証言している遺書について,アナリエが出したのか自分が出したのか分からないなどというのは異常であると主張する。

しかしながら,先に述べたように,遺書が2通存在し,そのどちらもがポストに投函されたものであることは,アナリエ証言,川村証言及び佐藤太代人証言等,他の関係各証拠とも合致し,優に認められる事実であって,この点に関する武証言の信用性は極めて高い。そして,実際に遺書をポストに投函するのが武自身であるか,アナリエであるかという点は,事柄としてそれほど重要とは思われず,武がアナリエに渡して遺書を投函するよう指示してもかまわなかったのであるから(アナリエ証言によれば,同7年6月1日の謀議の際には,被告人が,アナリエに対し,「買い物行くときにマミがアンナにやるから,そのときにアンナはポストで出しなさい」と言ったとされている。),武にとってもだれが実際に投函したかとの点は特段印象に残る出来事とならなかったために,この点に関する記憶に混乱を来したものと考えられるのであって,供述に変遷が生じたからといって,武証言全体の信用性が否定されるものではない。

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