第14章 武は森田と川村に風邪薬をあげていたか


前提1:人の毛髪の成長速度


 

中原は、日本パーマネントウェーブ液工業組合編『毛髪とパーマ』(新美容出版株式会社1980)を引用してヒトの毛髪は1ヶ月に1.1~1.3cm伸びると言い、平均成長速度と考えられる1.2cm/月を1ヶ月の分画としたと説明している(H12/3/3鑑定書)。すなわち、中原が依拠する毛髪成長速度の根拠はこの文献の記載のみである。

われわれは、念のために日本パーマネントウェーブ液工業組合から『毛髪とパーマ』を取り寄せてみた。そして、驚いたことに、その本のどこを見ても、中原が指摘するような記載が存在しないことを発見したのである。同書には「毛髪の寿命」という章があり、毛の成長速度に関する一覧表があった(同書45頁)。そこには、頭髪については1日0.35mm、1ヶ月10.5mmという記述があるのみである。どこをどう探しても、「1.1~1.3cm」という説明は見当たらなかった。中原は何を根拠に人の毛髪の成長速度を1.2cm/月と判断したのだろうか。われわれには知る術がない。

毛髪の成長速度は年齢、性別、人種などによって異なるほか、個人差が大きい。比較的新しい研究によると、人の頭髪の成長速度は平均すると1.0cm/月であるが、そのばらつきはかなり大きく0.6~3.36cm/月である(Harkey1993p15)。そのうえさらに、同じ個人でも、体調や栄養状態によって毛髪の成長速度は変わるし、さらに、頭のどの部分の毛髪かによって成長速度が異なる(id.)。これらはわれわれ自身が日常的に体験することでもある。

いずれにしても、森田や川村の頭髪が当時1ヶ月1.2cmの速度で成長を続けていた、あるいは、その速度に近い速度で成長していたことを示す証拠はどこにもないのである。彼らの毛髪は1ヶ月0.6cmしか伸びていなかったかもしれないし、3.36cm伸びていたかもしれない。これらの可能性は、中原が前提とする1.2cmである可能性と等しいのである。1.2cm=1ヶ月を大前提とする中原鑑定はこの段階ですでに崩壊していると言わなければならない。


前提2:毛髪への薬物取り込みのメカニズム


 

中原鑑定が、摂取した薬物は毛幹の特定の部分に固定され毛髪の成長とともにその部位が先端部分に移動するという前提に立ち、それ以外の取り込みの可能性を一切無視していることは明らかである。しかし、そもそも薬物はどのようなメカニズムで毛髪に取り込まれるのだろうか。中原は、この前提問題を全く説明していない。

前科学警察研究所法科学研修所主任教授の井上堯子は「薬物が毛髪中へ取り込まれるメカニズムの詳細については、ほとんど解明されていない」と述べている(井上1996p519)。そのうえで、彼女は、考えられる「取り込みモデル」として、毛球に入り込んでいる毛細血管から薬物が毛母細胞中に移行し、メラニン色素等の細胞内成分と結合したり、SH基を含むアミノ酸と結合して取り込まれ、毛髪の角質化によってそこに固定され、毛髪の成長とともに移動するという仮説を述べている(図14-2)。

しかし、井上自身は、このモデルを支持する報告がある一方で、薬物を同様に摂取しても被験者によって毛髪中に薬物が認められる時期が異なったり、毛幹に沿った薬物分布が必ずしも毛髪の伸長速度から予想されるものと一致しなかったという報告があることを指摘して、「分割分析の結果から、薬物の使用時期を推定することは慎重を期さなければならないと考える」と結論している(井上1996p521)。要するに、中原が前提としている取り込みモデルは科学的に実証されているとは言い難いのである。

カリフォルニア大学デイヴィス校のヘンダーソン教授は、薬物の毛髪への取り込みには複数のメカニズムが関与していることを実験的に確かめ、中原が前提とする薬物取りこみモデルを「単純過ぎる」と指摘したうえで、次のようなモデルを提案している(図14-3)。

①毛髪が形成される過程で毛細血管から取り込まれる

②毛髪形成後に汗や皮脂から取りこまれる

③毛髪形成後および毛髪が表皮から出た後に、外部環境から取り込まれる

④毛球を取り囲む皮下組織に貯蔵された薬物が毛細血管に流れ込んで毛髪に取り込まれる

(Henderson1993)

この「複合モデル」を支持する幾つかの実験結果を紹介しよう。重水素化したコカインを被験者に鼻から吸引させ、2時間後にコカインの含まれていない毛髪を30分間手で握らせた。その毛髪を分析したところ、その毛髪からコカインが検出された。毛髪を洗浄してやってみてもやはりコカインが検出されたのである。これは、摂取した薬物が被験者の掌の汗や皮脂から毛髪に取り込まれたことを示している。

また、毛髪を取り囲む皮膚のなか(脂質に富んだ部分)に薬物が取り込まれ、そこから徐々に薬物が毛細血管に流れ出していることも確かめられている。これは2つの可能性を意味する。皮膚の外から入った薬物が皮膚細胞に貯蔵されて徐々に毛髪に取り込まれる可能性と、もう一つは、体内から摂取された薬物の一部が皮膚に貯蔵されて、それがもう1度毛細血管を通じて毛髪に徐々に取り込まれる可能性である(id.)。

毛髪のある部分からある薬物が検出されたからと言って、その薬物がある時期に服用されたことを意味するなどとはとうてい言えないことが、これで分かるだろう。ヘンダーソンは、分画分析による時期の特定が当てにならないことを直接実験で確かめている。重水素化コカインを投与した被験者の毛髪を4ヶ月後に採取して、1cmずつ切り分けて分析したところ、一部の被験者の毛髪のすべての分画からコカインが検出されたのである(id.,p24)。

この「時期」の問題だけではなく、ヘンダーソンや井上が指摘するように、外部からの取り込みも考えなければならない。ヘンダーソンの「複合モデル」が示しているように、外部汚染と言っても単純に外気から毛髪に付着するというだけではなく、汗や皮脂、皮膚組織を通じて毛髪に取り込まれることも考慮しなければならない。現在の技術では、外部汚染と体内からの取り込みとを区別することは不可能である。

2001年6月にアメリカの連邦有害物質疾病登録局(連邦健康教育省の部局)は、全米の毛髪鑑定や法医学等の専門家をアトランタに召集して「毛髪鑑定パネルディスカッション:科学の現状を探索する」と題するシンポジウムを開催した。その記録によると、参加した7名のパネリスト全員が、金属汚染物質の毛髪鑑定結果からは、それが体内から吸収されたものか外部から吸収されたものかを区別することは困難であるとする点で一致した(ATSDR 2001, p4-1)。

あるパネリストは、次のような研究報告を引用した――水道水にヒ素が含まれているという条件下で、ビン入りの水(ヒ素は含まれていない)だけを飲み、水道水(ヒ素が含まれている)の風呂に入っている人の毛髪から検出されたヒ素の濃度の方が、前者より低濃度ではあるがヒ素入りの水道水を飲みかつ水道水の風呂にも入っている人のそれよりも高い数値を示した。

中原は鑑定資料を洗浄液と蒸留水で各3分ずつ超音波洗浄をしている。これは、おそらく、外部から毛髪に取り込まれた薬物を除去しようとしたのであろう。しかし、先に述べたヘンダーソンの実験では、洗浄した毛髪からもコカインが検出されている。アトランタのシンポジウムでは、このような洗浄方法が全く無意味であることが確認されている。パネリストの1人でコロラド大学健康科学センター教授マイケル・コスネットは、色々な研究結果は「ヒ素を取り除く真に有効な方法がないことを示している。毛髪を激しく洗浄しないと外部からのヒ素は残るし、激しく洗浄しすぎると、内部からのヒ素も取り除かれてしまう」と述べている(id., p4-2)。

意図的に外部からヒ素で汚染させた毛髪の洗浄実験の結果をみると、洗浄のし方によって残存濃度に違いがあるが、水酸化ナトリウム溶液で60分間洗浄した後でも毛髪からヒ素が検出された。さらに、同様の実験で1600分間洗浄した後でもヒ素が検出されたというデータもある(id.,p4-3)。

要するに、現在の毛髪鑑定のレベルでは、毛髪から何かの物質が発見されたとして、それが何らかの理由で毛髪に取り込まれたと推測することは出来ても、経口摂取されたものなのか、外部環境から取り込まれたものなのかを区別することは不可能なのである。中原は、何らの科学的な根拠も示さずに、これが体内から吸収されたものだと決め付けている。


前提3:毛髪から検出された薬物の濃度は体内に吸収された薬物の量に比例するか


 

中原はこのことを前提にして、川村はアセトアミノフェンを摂取していたが何らかの理由であまり吸収されなかったとか、森田は長期に大量のアセトアミノフェンを飲んでいたが亡くなる半月前は用量が減っていた、などと述べている。しかし、中原は、ここでも、アセトアミノフェンの摂取量が毛髪からの検出量と比例することを示すデータを全く示していない。

ヘンダーソンは、この摂取量―検出量の比例関係を否定するデータを多数あげている。
例えば、モルヒネの投与を受けている癌患者についての研究によると、投与量と毛髪濃度にはなんの関係もなく、もっとも少ない量の投与を受けている患者の毛髪からもっとも高濃度のモルヒネが検出された;亜鉛を使った動物実験で血漿中の濃度と毛髪中の濃度とが比例しないことが確かめられた、などである。

また、彼は、重水素化コカインを被験者に投与して、その尿、血液、そして、毛髪の濃度を測定する実験を行なった。その結果、コカインの投与量と毛髪濃度との間には明確な比例関係はなく、かつ、個人差が大きいこと、そして、その個人差は血液中の薬物動態の差異によっても説明できないことを確認した。(Henderson1993p22)

井上堯子も、投与量―検出量の比例関係を明確に否定している。「管理された条件下で治療薬の投与を受けた患者の場合でさえも、投与量と毛髪中薬物濃度には相関が認められず、毛髪中の薬物濃度を基に、使用した薬物量を推定することはできない」と(井上1996p521)。

投与量と毛髪薬物濃度に相関が認められないのであれば、毛髪から高濃度のアセトアミノフェンが検出されたからと言って大量のそれを摂取したと言えないことは明らかであり、さらに、濃度が下がったからと言って摂取量が減ったことにもならないこともまた明らかである。

中原鑑定が前提とする原理は、どれをとっても科学的な裏付けがない。とうてい科学的な正確性に裏付けられた鑑定ということはできないのである。将来はいざ知らず、現在の科学のレベルでは、薬物がどのようなメカニズムで毛髪に取り込まれるのか、そして、外部からの取り込みの影響はどのようなものなのかについても、ほとんど何も解明されていない。このような科学の状態において、薬物摂取の有無にとどまらずに、さらに進んで、その摂取の時期や量を推測しようとする、「先駆的な」中原鑑定を刑事裁判の証拠として採用するのは、あまりにも危険が大き過ぎるとわれわれは考える。

決定的なことは、中原が毛髪の成長速度を1.2cm/月と断定していることである。既に指摘したように、毛髪の成長速度には個人差があり、0.6cm~3.36cm/月という大きな開きがあることが研究者によって指摘されているのである。これを無視して、39歳の川村と61歳の森田がともに毎月1.2cmの速度で毛髪を成長させていたと考えるのは、あまりにも大胆な推理ではないだろうか。

 

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