第10章 森田昭の死因

小林宏行の証言

 

杏林大学教授・医学部長の小林宏行は、呼吸器学、感染症学の専門家として、証言した。

小林は、埼玉県警から、末梢血中の好中球が減少していれば、病態部組織の好中球も減少することがあるか、という照会を受けた。これに対して小林は、一つの論文(武田1992)を参照して「減少することがある」と回答した。すなわち、実験的に末梢血の好中球を少なくしたマウスを使って、肺炎の最もひどいとき(極期)の肺炎局所の全細胞を調べ、その中で好中球の占める割合が40%前後であったという論文がある;そして、好中球数に異常がなければ、一般に、70から90%を占めるとされているから、末梢血中の好中球が減少していれば、病態部組織の好中球割合が低下することがあると回答している。

同時に小林は、埼玉県警から、森田の肺炎の組織写真を受け取り、森田に好中球減少症が認められるか、と尋ねられた。

【写真10-1森田の肺炎の組織写真(齋藤鑑定書より)】

写真10-1 森田の肺炎の組織写真(齋藤鑑定書)

そこで、小林は、2名の者に命じて、組織写真の好中球とリンパ球の割合を算出させたところ、1名の者は好中球が41%、他の1名の者は好中球が51%であったという。

この組織写真の好中球比率が一般に較べて低いという算定結果をふまえて、小林は、比率が低い原因として、2つの仮説を立てた。すなわち、①本例が既に治癒過程にあること、②末梢血好中球が減少していたことの2つである。そして、組織写真が肺炎の特徴を示していて治癒過程にあるとは認められないから上記①の仮説を否定し、上記②を結論として掲げている。

このように、小林は、炎症部分の血液細胞のうち好中球の占める割合が通常の数字(70~90パーセント)よりも低ければ、好中球減少症と診断することができると証言した。

要するに、炎症部分の血液から好中球の個数を数えるのではなく、好中球の割合を算出することによって、好中球減少症と診断することができると証言したのである。

ところで、小林の紹介した武田博明の「好中球減少下肺炎の病態にかんする実験的研究」という論文(武田1992)は、薬品を使用して好中球数を減少させたマウスを肺炎に罹患させ、肺胞洗浄液中の細胞の好中球割合を測定した論文である。小林の推測は、この武田論文から出発している。しかし、武田の上記論文は、埼玉県警が小林に依頼した森田の症例と、前提条件が大きく違いそのまま通用するとはいえない。

第1に、武田は、マウスの肺胞洗浄液から、好中球を計測しその割合を算出しているのに対し、埼玉県警が小林に手渡したのは、肺炎の組織写真1枚である。武田は、10mlの食塩水で肺胞を洗浄し、その洗浄液から総細胞数を算出している。これに対して、小林が計測の前提としたのは、組織そのものの写真である。したがって、武田論文を推測の根拠とするためには、肺胞の洗浄液と、組織そのものとで、その割合が同じであることが説明されなければならないが、そのような研究成果は明らかにされなかった。

第2に、組織写真がきわめて局所的な部位でしかないことを小林も認めている。肺胞を構成している組織を何百倍、何千倍かに拡大したたった1枚の顕微鏡写真から得られるデータと、肺胞全体を洗浄した液体から得られるデータとではその精度が相当異なることは言うまでもない。一視野の隣りに大量の好中球がうようよしているかもしれない。肺胞洗浄液について報告した武田論文の考察を、顕微鏡写真から算定したに過ぎない森田の事例でそのまま使えるのか明らかでない。

第3に、武田は、マウスを死亡させ直ちに肺胞の洗浄に取りかかっているのに対し、埼玉県警が小林に手渡した組織写真は、森田の死亡から約60時間以上経過したものだということである。組織写真が撮影されたのは、早くとも解剖を開始した平成11年5月31日午後1時00分であるから、すでに同月29日午前1時ころ(死体検案書)という森田の死亡から約60時間以上経過している。死亡直後から死後変化が始まり、好中球などは失われていくことは、小林も、齋藤も証言している。小林は、好中球だけでなく他の血球も障害を受けると証言したが、どの血球も同じ比率で障害を受けるということが研究で明らかになっているのかという問には答えられなかった。この点が解明されない以上、死後変化が開始した後の好中球比率と、死亡直後の好中球比率を同視することは科学的ではない。

このように、さまざまな前提条件が異なる中で、小林は無理に推論をしているのである。
そして、最後にもっとも重要な点である。それは、仮に上記3つの問題点がクリアされたとしても、武田論文は好中球を減少させたマウスでは肺炎局所の好中球割合が低かったという方向の報告論文であって、肺炎局所の好中球割合が低ければ必ず末梢血の好中球数が少ないのか、ということについては、何ら考察していないのである。

要するに、武田の実験・考察は、今回埼玉県警が小林に依頼したような炎症組織での好中球の割合から末梢血の好中球数を推測した研究ではないのだ。にもかかわらず、小林は、末梢血中の好中球数を計測することなく、炎症組織の好中球割合を算出することで、好中球減少症の診断を下してしまった。そして、さいたま地裁判決は、無批判にこの証言を採用してしまっている。
われわれは、最終弁論において、上記の問題点を指摘し、小林証言によって森田の好中球減少症を結論づけることが誤りであることを述べたが、判決書には全く考慮された跡がない。

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