第9章 情況証拠

1 「自転車で出かけていく佐藤を見た」

 

佐藤修一の妻アナリエから生命保険金の支払を請求された安田生命は、調査会社に佐藤の死をめぐる情況の調査を依頼した。この依頼を受けた株式会社生保リサーチセンターの調査員白石貞一は平成7年7月中旬から下旬にかけて行田警察に赴き聞き取り調査をした。彼の報告書には行田警察署刑事課長の7月20日の談話が載っている。

それによると、行田警察は、佐藤の死因を「自殺」と決めてかかっていたわけではなく、死亡の状況について周辺の捜査も行っていたことが分かる。刑事課長は佐藤の死因を入水自殺と「断定せず、推定にとどめ[た]」「こんな人を高額保険に加入させることは過大保険だと考えます」とコメントしている。そして行田警察刑事課長は談話の中で次のように述べている。

H7年6月3日は、[佐藤修一の]妻は、職場の旅行で不在だったとのこと。同日5時頃に婦人用自転車で出て行く[佐藤]の姿が近隣者に目撃されています。(白井貞一報告書)

 

行田警察は、平成7年6月3日午後5時頃に婦人用自転車に乗って出かけていく佐藤の姿を目撃したという情報を得ていたのである。この情報は、当時の行田警察や生命保険会社にとっては、重要な情報ではない。それは当時の捜査状況に照らせば、自殺か他殺かの決め手になる情報ではないからである。しかし、八木茂が有罪かどうかを判断するうえにおいては決定的な意味をもつ。佐藤が午後5時頃に自転車に乗って出かけたということであれば、その2時間前に彼がトリカブト入りあんパンを食べて死ぬということはありえないからである。

佐藤を目撃した「近隣者」が誰なのか、その者の供述調書はあるのか、などは全く不明である。佐藤修一の変死記録にはその情報があるかもしれないが、それはわれわれに開示されていない。しかし、平成7年7月20日に行田警察刑事課長がこの点について虚偽を語る理由は全くないし、調査会社の調査員がこの事実について聞いてもいない話を報告書に書く理由もない。

さいたま地裁判決は、この談話と同じ内容が、報告書の別の箇所で八木同席のもとでアナリエが語った情報としても記載されていることを指摘して、「被告人がアリバイ工作の一環として***虚偽情報を流した可能性が高いと考えられる」と言う。刑事課長の情報源がアナリエだというのだ。変死記録が開示されず、「目撃者」の正体が明らかでない以上確かにその「可能性」は否定できない。けども「可能性が高い」と言うのは、どう考えても言い過ぎである。

そして、より決定的な問題がある。この情報がアナリエを介して八木が流したものだと仮定すると、それは決して「アリバイ工作の一環」ではありえないということである。刑事課長の談話をもう一度見てみよう。課長が語る目撃情報は「6月3日午後5時頃に婦人用自転車に乗って出かけていく佐藤の姿を目撃した」というものである。武、考子、アナリエの証言によれば、「6月1日別荘謀議」で話し合われたアリバイ工作は「アナリエが午後3時に帰宅したら佐藤さんはいなかった」ことにしようというものである。そして武は、午後3時ころに佐藤にトリカブト入りあんパンを食べさせて殺害したというのである。犯行計画が本当だとすれば、そして、その計画にしたがって「虚偽情報を流した」のだとすれば、八木たちは、行田警察に対して、佐藤は午後3時前に自転車に乗って出かけるところを目撃されたと言わなければならないのだ。刑事課長の情報源は八木であるという裁判官たちの推理は、むしろ、八木らが佐藤殺害の謀議をしていなかったことを示唆するのである。

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