第7章 アナリエ・サトウの証言

 

アナリエ証言と偽りの記憶

 

アナリエ=サトウは、レオのフィリピン人ホステスのひとりであり、彼女も八木と男女関係があった。

アナリエは、マニラ市内の大学で秘書コースを終了し、さらに教養コースに進んだが、大学在学中、ダンススクールに通って、日本でダンサーとして働くため、大学を中退した。そして、昭和60年ころ、「興行」ビザで来日し、在留期間6か月が切れるとフィリピンに戻り、また、「興行」ビザで来日するという生活を繰り返し、広島県などでダンサーとして働いた。その後、八木の経営するレオで働くようになった。

アナリエは、平成13年11月12日から始まった星検事の質問に、武まゆみの証言をなぞるような証言をした。アナリエは、平成7年6月1日、八木の別荘で佐藤を殺す打合せをし、その打合せどおり、3日、武とニチイに買い物に行った後、渡辺荘で、武が佐藤にパンを食べさせ、アナリエはのどにパンを詰まらせた佐藤にコップの水を渡したと証言し、その後、佐藤が苦しむ様子の証言へと続いていった。

しかし、アナリエも、この渡辺荘事件の記憶を失っていた;佐藤は自殺したと思っていた、とも証言した。

 

トリカブトで1人の人間を殺害するという出来事を、そうそう忘れられるものではない。そうすると、「記憶を失っていた」という説明が嘘か、殺害場面を体験したかのように述べた証言が嘘か、のどちらかであろう。

さいたま地裁判決は、こう述べた。

アナリエが佐藤殺害の場面に立ち会っている以上、その記憶をその後失い、佐藤は自殺だと思っていたなどという証言は、武の場合と同様、到底信用することができない。

 

さいたま地裁判決は、アナリエが佐藤殺害の場面に立ち会ったことを前提に、記憶を失ったという部分が間違っているのだと決め付けてしまっている。

しかし、アナリエが佐藤殺害の場面に立ち会ったことを示す客観的な証拠はない。そういう場面があったと、武とアナリエが言っているだけだ。つまり、さいたま地裁判決は、アナリエの証言を独立して検討することをせず、武の証言が信用できるから、アナリエの証言が信用できるといっているにすぎない。

 

アナリエが「記憶を失っていた」という説明は、彼女の上申書・供述調書の作成経過と一致しており、十分信用することができる。殺害場面に立ち会ったという証言が嘘なのだ。

アナリエの上申書・供述調書に渡辺荘事件が初めて現れるのは、平成12年11月16日である。アナリエは、この日以前にも、佐藤の死亡に関して取調べを受けているが、渡辺荘での出来事についての記載はない。この日までのアナリエの取調べとその供述内容をみてみよう。

アナリエは、平成12年3月24日の逮捕から5月30日の森田事件の起訴まで、連日の取調べを受け、そして、三日と空けずに供述調書、上申書合計69通が作成されている。ところが、5月30日を過ぎると、11月6日の上申書まで、供述調書がひとつもない。われわれは、この期間のことを、アナリエに対する取調べの様子を窺わせる証拠がないという意味で、「空白の5か月」と呼んだ。

この空白の5か月間にも、少なくとも19回の取調べを受けていたことが法廷で明らかになった。すでに森田事件の起訴は終了しており、埼玉県警・さいたま地検がこの時期に取り組んでいたのは佐藤事件である。もし、この時期の取調べで、アナリエが佐藤殺害を供述していれば、捜査官が供述調書を作成しないはずがない。つまり、この5か月間に、アナリエは佐藤事件について取調べを受けていたにもかかわらず、佐藤を殺害したという供述をしていなかったということである。

次に、11月6日付で作成された上申書のタイトルは、「私が警察に嘘をついていたことについて」とされている。「1995年6月3日に何をしたかということについて、私が警察にお話した内容は、次のようなものでした。」で始まるこの上申書から、この11月6日までに、アナリエが警察にどういう話をしていたかが分かる。

 

6月3日、朝の10時か11時頃、渡辺アパートで起床しました。昼ご飯には、佐藤さんがご飯を炊き、私はアドボ(フィリピン料理のひとつで、豚肉や玉ねぎ、ニンニク等で作ります)を料理しました。そして二人で食べました。

その後、私は買物をするために出掛け、夕方5時、帰宅しました。部屋に入ると、佐藤さんはそこでテレビを見ているところでした。

私は自分のタバコ(パーラメント)を持っていなかったので、彼にタバコ1本(ショートピース)をもらいました。

その日、冷蔵庫には魚(サンマ)と、大根があったので、その魚を焼き、大根を酢って、佐藤さんの夕食にと思い、テーブルの上に置いたのでした。

私がシャワーを浴び終わったところ、

佐藤さんはパーラメント3箱を私のために買ってきてくれていて、お金を払おうとしたのですが、彼は受け取りませんでした。

 

そして、この話は嘘だ、八木に指示された内容だと続くのだが、では、何が本当のことなのかということは、全く記載がない。

また、11月8日にも、上申書が作成されている。これは、6月3日のディナーショーについて、今まで話していたことと本当のことが書かれている。「本当のこと」とは、つぎのとおり:

 

6月1日、レオでの仕事が終わった後、私と八木、マミ、ターちゃんの四人で別荘に行きました。

そこで、私達が話したのは、6月3日に私と八木、マミ、鹿野、川村の5人で、ディナーショーに行く、鹿野と川村を連れていくのはもし万が一警察に聞かれた時に、私達3人は6月3日、ディナーショーで彼らと一緒だったというアリバイを作る必要があるからだ、そしてディナーショーの後、私達はレオに戻り、そして私と八木、マミ、川村の4人で別荘へ行く、川村を連れていくのは彼に私達のアリバイを証言させるためである。

6月1日は別荘でこのような事を私達4人は話合いました。

計画に従い、私と八木、マミ、鹿野、川村野5人は、マミの車マジェスタでディナーショーに行きました。

ディナーショーの後、私達全員でレオに戻りました。

 

計画にしたがってディナーショーに行ったというものの、何の計画なのか、ディナーショーに行く前に何をしたのかについては、全く記載がない。

少し間があいて、今度は、11月16日である。この上申書の書き出しはこうだ。

 

1995年6月3日、ディナーショーに行く前に、私とマミの2人は、渡辺荘で、マミが用意した毒入りパンを佐藤さんに食べさせたことに間違いありません。

 

そして、同じ日付の警察官調書は、ワープロで印刷されたB4で16枚のものであるが、佐藤に毒入りのパンを食べさせたときの状況、佐藤が苦しむ様子について記載されている。これが佐藤殺害に関する最初の供述である。

すでに、アナリエは、警察に嘘をついていた、これが本当のことだ、という上申書を出そうとしているのだから、もっと肝心な、どうやって佐藤を殺害したのかという11月16日付警察官調書のような内容のものを、作成するのが普通ではないか。それをしなかったのは、本当のことを言いたい、と思っても、11月上旬の時点では、何が起きたのか、自分は知らないので、どうしようもなかったと解釈するのが最も合理的である。

このように、「忘れていた」という証言は、その言葉どおり、少なくとも12月まで、アナリエの頭の中には、渡辺荘事件のかけらもなかったという意味である。

 

ではなぜ、アナリエが、武と同様の証言を、詳しく法廷ですることができたのか。

その理由は、捜査官による情報コントロールにある。

3月に逮捕され、行動その他の自由を奪われ、全生活を支配されたのは、武、考子だけではない。アナリエも、捜査官のほかは、弁護人としか会うことができず、聖也に会いたくてたまらなかったことだろう。

こうしたアナリエに対して、捜査官が、死刑をちらつかせたことも、想像に難くない。武ノートに書かれている取調べと同じように、アナリエに対してもこのままでは死刑だと告げて取調べは行われたはずだ。こうして捜査官は、アナリエに恐怖感を与えると同時に、さかんに思い出すよう強制したに違いない。

もっとも、アナリエは、武や考子とは違って、積極的に渡辺荘事件の物語を作り出すことはできなかった。武・考子による渡辺荘事件物語が完成した12月にならなければ、アナリエの供述調書に具体的な場面が現われてこないのは、そういうことである。

結局アナリエは、武・考子が作り出した物語に合わせる形で、供述を完成させた。思い出すよう強制され、情報を与えられる中で、記憶が作り出されていった過程は、武・考子と同様だろう。

こうして存在しなかった物語が、アナリエの供述に現われ、それは、忘れていたものを思い出したという形で証言されることになったのである。

 

ところで、さいたま地裁判決は、「忘れていた」の意味を、「日ごろ考えないようにしてきたので、記憶が断片化していてすらすらと筋道立てて話すことができなかった、あるいは、いざ話そうとすると細かい部分を相当忘れていたという意味にすぎないとみるのが妥当である」という。

しかし、アナリエは法廷で、佐藤さんは自殺したと思っていた時期があることをはっきりと認めているのであるから、記憶が断片化していたとか細かい部分を忘れていたとかいう問題ではない。体験した事実であれば当然忘れるはずのない出来事を証言できなかったのであるから、証言内容が真に体験した事実ではないと考えるのが筋である。

 
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