第6章 森田考子の証言

 

「遺書」

 

考子は佐藤修一の遺書についてどのような認識をもっていたか。この点に関する考子の供述は目まぐるしく変転している。

前出の3月29日付検察官調書では「佐藤さんの遺書を見たこともないし、遺書があるという話も、今回私が逮捕された事件が報道されるまで知りませんでした」と述べている(強調は引用者)。4月3日付検察官調書でも「私は、これまで佐藤さんの遺書など見たことはなかったし、そんなものがあるとは八木、マミ、アナリエから聞いたことはありませんでした」と言う。

彼女が遺書についての認識を語るのは「空白の2ヶ月」の後である。8月1日付上申書で考子は平成7年6月1日別荘での八木と武の会話のなかに次のようなやり取りがあったと語った。

八木「三日の昼間はアンナ、夜にまみがずらして出せばいい」と佐藤修一のいしょ[遺書]である手紙を出す様に話した。

八木「手紙がついた日を見て俺がはんだんする」と、警察に二枚の手紙の内、どっちをもって行くか話した。

 

この話を元にして9月12日に白川刑事が調書をまとめている。会話の内容はより細密になっている。

八木は、

***三日に居なくなったことにするから、ディナーショーに行って帰って来てからは店に行っちゃうんだから、手紙を昼間のうちにポストに出してくれれば良いから

***と言う話しをし、更に、佐藤さんの遺書の手紙を昼間のうちに出す、と言うことも言ったのでした。するとアンナが、

「私手紙持って無い」

と言ったのです。するとマミが、

「私が持っているよ、話し良く聞きないね」

と、マミが佐藤さんの遺書の手紙を持っていることを話したのでした。(H12/9/12警察官調書)

 

6月1日別荘での八木たちの会話を通じて、佐藤の遺書の存在を知ったというのである。

しかし、この点はその後変更される。10月23日の佐久間検事の取調べでは、「八木が言った手紙という言葉が、佐藤さんの遺書を意味しているということは、佐藤さんを殺した後、アナリエと佐藤さんの捜索願を警察に出しに行ったときに知りました」と言い、別荘の段階では八木の言う「手紙」が「遺書」であることは分からなかったことが示唆される(H12/10/23検察官調書)。そのことは11月2日に確認される――「八木の言った手紙が遺書であることは別荘での話し合いでも分かりませんでした。後になって、佐藤さんの捜索願を出しに行ったとき、アナリエが佐藤さんの遺書を持っていると言ったので、その時になって別荘で話に出ていた手紙が遺書であることを知ったのです」(H12/11/2検察官調書。強調は引用者)。

ところが、考子はその2週間後11月15日に白川刑事から佐藤の遺書の写し(平成7年6月5日にアナリエが本庄警察に提出したもの)を示されると、八木がレオで佐藤に「作詞書いてみな」などと言って彼自身に遺書を書かせるのを目撃したというエピソードを披露したのである(H12/11/15警察官調書)。――9月12日には「佐藤さんの遺書の手紙については何処で誰が書いたのかは私は分かりません」と述べていたのに(H12/9/12警察官調書)。

法廷証言に至って孝子の話はさらに変化する。別荘謀議の段階で八木たちは「遺書」と言っていたというのである(第29回・第33回公判証言)。しかし、佐藤が遺書を書いている場面を見たことはないという(同前)。

この目まぐるしい供述の変更は何に由来するのか。捜査の進展に合わせて事実を小出しにしたというようなものでないことは明らかであろう。その理論では、遺書を書くのを目撃したという供述が後退してしまうことの説明がつかない。佐藤の遺書があるのを知っていたのに、「知らなかった」「マスコミが報道するまで知らなかった」などとしらばっくれることなど、考子という人にはできない。彼女は本当に知らなかったから「知らなかった」と言ったのである。

「空白の2ヶ月」の間に、白川刑事との共同作業を通じて、別荘での八木と武の会話が考子の脳裏にひらめいた。遺書にまつわる彼らの会話も音声として出てきた。しかし、それは実体験に基づく記憶ではなく、白川刑事の与えるさまざまなヒントや彼女自身の精神の集中や夢作業をともなう意識の操作、いわば「記憶回復セラピー」によって回復された「偽りの記憶」に過ぎない。だからこのような説明困難な動揺を見せるのである。

 

「パパアパート来てH」:平成7年6月1日未明の行動

 

考子は、平成7年5月31日の午後8時10分ころまでアピタで仕事をしたあと、ときわスーパーで買い物をして、自宅に帰り、支度をして、午後9時過ぎにはレオに出勤した、と証言した(第29回公判証言)。そして、翌6月1日午前3時に店を閉めて4人で2台の車に分乗して東秩父にある八木の別荘に向かい、4時少し前には別荘に着いた;そして、佐藤修一を殺害する相談をして、「明るくなったので」就寝したと言う(同前)。

平成7年6月1日埼玉地方の日の出時刻は午前4時26分である。「日の出時刻」というのは、眼高4.6m地点から見た太陽上辺と水(地)平線が一致する瞬間である。実際に空が明るくなるのはこれよりも前である。気象条件や大気の状態にもよるが、空が白みはじめるのは日の出時刻の30分くらい前であり、10分前には空全体が明るくなっている。そうすると、考子の証言を前提にすると、4人は別荘に着いてからほとんど何もすることなく就寝したことになる。考子によると、彼らは別荘について「飲む支度」をして酒を飲んだと言うのであるから(第29回公判証言)、一杯やりながらときわスーパーで買ってきたまぐろの刺身をつついている間に外は明るくなってしまう。佐藤を殺害する相談をする時間などない。仮にあったとしても、ほんの数分から十数分程度である。彼女が語る「謀議」の内容はそのような短時間であわただしく済ませるようなものではないだろう。

 

彼女の証言にはもう一つ不可解な点がある。当時考子が付けていた手帳の平成7年5月31日の欄にはこう書かれている。

パパアピタに来て(山へ行くの事) ときわかいもの

パパアパート来てH 山へ泊まり4人

 

この日考子は八木の訪問を受け、自宅で彼とセックスしているのである。その日のいつ八木とセックスしたのかと質問されて彼女は「山へ行く前」と答えている(第30回公判証言)。「山へ行く前」とは一体何時なのか。考子は午後8時10分までアピタで仕事をして、ときわスーパーで買い物をし、自宅に帰って支度をして、午後9時にレオに出勤しているという。考子の自宅からレオまでは車で2~3分の距離であり、移動時間は問題にならない。しかし、ときわスーパーでの買い物や自宅での身支度にはそれなりの時間を要するだろう。特にホステスをしていた考子が身支度をするにはどんなに短くても30分はかかるだろう。したがって、レオに出勤する前に自宅で彼女が八木と同衾したとは考え難い。

そうすると、考子が八木と自宅で2人きりのひと時を過ごしたのは、レオに出勤した後ということになる。しかし、彼女はその日レオの営業時間中に自宅に一旦帰ったなどとは言っていない。結局、考えられるのは、レオの閉店後考子と八木が他の2人(武とアナリエ)とは別行動をとった――考子と八木は考子宅に行ってしばらく2人で過ごしてから別荘へ向かい、別荘で武・アナリエと合流したということである。考子、武、アナリエの3人は、一致して、この日、4人は2台の車で別荘に行った――武のマジェスタに武とアナリエが乗り、考子のBMWに八木と考子が乗った――と証言している。それは翌日アピタで仕事があったからだと考子は言う。しかし、それだけではなく、彼女が八木と一緒に2人だけの時間を過ごしていたからではないだろうか。

いうまでもなく、この推測のとおりだとすれば、別荘謀議は完全に崩壊する。考子と八木が別荘に着くころには日の出時刻をとうに回っているだろうからである。

いずれにしても、5月31日から6月1日にかけての行動に関する考子の証言は不合理である。彼女がどの時点で八木とセックスをしたのかの説明ができないからである。考子は八木と寝た日には必ず日記帳に赤丸をつけてそれを記録している。それは1ヶ月に1回あるかないかという頻度であり、決して日常的な体験ではなかった。八木と過ごした貴重な時間を忘れないように記していたのである。この楽しい思い出の記憶が「空白の2ヶ月」の操作によって、忌まわしい殺人謀議の記憶にとって代わられてしまったのである。

写真6-1考子の手帳H7・5・31

写真6-1考子の手帳H7・5・31

 

 

 

 

 

 

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