第5章 武証言のおかしさ

5 証言内容それ自体のおかしさ

 

人間の行動は常に合理的というわけではない。ときに人は、おかしな行動、理屈に合わない行動をとる。とりわけ、緊張したり、興奮したり、葛藤状態にある人は、不合理な行動をとる可能性がある。しかし、いま正に述べたように、不合理な行動をとるにはそれなりの理由があるのである。それによって、不可思議な行動をとったことの1つの説明がつくのである。そのような状態にないにもかかわらず、とりわけ沈着冷静な行動をとっている人が突然に説明のつかない行動を取った場合は、むしろその人の精神の異常を疑うことができる。

犯行を計画しそれを実行した人が、特に精神に異常がないにもかかわらず、実際に体験した人ならば言わないような不合理な供述をする場合、その自白の信憑性には疑いが生じる。これも虚偽自白の指標の1つとされている(渡部1982pp308‐313)。

武も八木も、精神障害者ではない。武の証言によれば、彼らは「トリカブト殺人」について、非常に念入りに打合せをしていたことになる。ところが、武の自白には不自然な点があまりにも多い。その幾つかを紹介しよう。

白昼堂々の大胆な犯行

 

渡辺荘は、本庄駅の北東直線距離で約450メートルの位置にある住宅地にあり、周囲には一般住宅や集合住宅が立ち並ぶ。渡辺荘自体も、560平方メートル程の1つの敷地に建坪10数坪ほどの木造平屋建の建物4棟が軒を並べる集合住宅である。各棟の間にはフェンス等の仕切りはまったくない。北側には大家である渡辺善好宅がある。各棟はみな同じつくりであり、屋根は切妻瓦葺き、外壁はトタン張り、窓はアルミサッシ、4畳半と6畳の和室が2つと浴室、狭いキッチンがある。佐藤修一がアナリエと同居していた「渡辺荘4号室」は東南に位置し市道に面している。南側の「渡辺荘2号室」との距離は6.1メートル、西側「渡辺荘3号室」との距離は3.1メートルで、それぞれの隣家との間をさえぎるものは何もない。アルミサッシの玄関引き戸を開けて、上がり框の先の引き戸をあけると、そこが佐藤の部屋である。この4畳半は東側市道に面しており、市道側に2本引き窓がある。トイレは玄関を入ってすぐ左、東南の角にあり、汲み取り式である。トイレにも市道に面した2本引き窓がある(H12/12/25検証調書)。大声を出せばいうまでもなく、普通の話し声でも、4畳半やトイレで発した声は外に筒抜けであり、市道側からも隣家からも聞き取れる。

武の証言は、この4畳半で、真昼間に、佐藤修一にトリカブト入りあんパンを食べさせ、佐藤はバタバタと暴れだし、嘔吐しながら苦しんでいた;佐藤は「オエッ」と大きい声で吐いていた;アナリエもトイレで「オエッ、オエッ」と声を出していた;そして、八木の「押さえろ」という号令とともに、アナリエと一緒に、苦しみもだえ激しく嘔吐する佐藤を馬乗りになって押さえた;振り落とされた;八木は「ちゃんと押さえろ」と怒鳴った;私もアナリエに「ちゃんと押さえてよ」と怒鳴った、という修羅場を演じたというものである(第6回証言調書)。――余りにも大胆な犯行ではないだろうか。

 

【写真5‐8 渡辺荘4号室 佐藤修一の家】
写真5-8 渡辺荘4号室 佐藤修一の家

 

そして、彼らは、佐藤の遺体をそのまま放置して、ディナーショーに行ってしまったというのである。さらに、人々が寝静まった真夜中に、八木、武、アナリエ、考子の4人がかわるがわるワゴン車で現場に駆けつけ、市道に面した4畳半に横たわった佐藤の死体を裸にしたり、部屋の掃除をしたり、衣服を着せて、その死体を玄関から車の中に運び入れ、利根川に向けて出発したというのである。――これもまた余りにも大胆な振る舞いではないだろうか。

警察はおそらく、周辺住民に大掛かりな聞き込み捜査を行ったに違いない。しかし、当時不審な物音や話し声を聞いた人はいなかった。

 

【図5‐4 渡辺荘4号室の間取り】
図5-4渡辺荘4号室の間取り

 

武の証言によれば、八木はトリカブトの発覚を非常に恐れており、平成5年9月から平成7年5月にかけて、佐藤にトリカブトを少しずつ与え、佐藤を少しずつ衰弱させて病死させようとしていたというのである。八木は、武がトリカブトの量を間違えて佐藤の容態が急変したときには、非常にうろたえていたという(第4回証言調書)。そのような八木が一体どうしてこのような大胆かつ無防備な犯行を計画しなければならないのか。その理由らしい理由を武は全く語っていない。武は、八木の性格を持ち出して、「緻密な計画とかを立てたりする、すごく用意周到な人という***反面、思い立ったらすぐに行動しなくては気が済まないみたいな、子供のようなところがあります」などと説明している(第5回証言調書)が、全然説明になっていない。「緻密な計画」を立てて2年間それを地道に実行してきた人が、最後の最後にその計画を台無しにしてしまいかねないことをするとは思えない。

この犯行計画にはもう1つ不思議な点がある。武の証言によれば、永山荘での八木と2人きりの謀議の際にも、そして4人での別荘での謀議の際にも、午後3時に渡辺荘に行き、佐藤にトリカブト入りあんパンをあげることを計画したことになっている。そして、実際に平成7年6月3日午後3時に渡辺荘で佐藤にトリカブト入りあんパンを食べさせたという。しかし、なぜ佐藤が6月3日の午後3時に渡辺荘にいるのかについて、一切説明がない。なぜその時を犯行時刻に設定したのか、武は全然説明していない。また、あらかじめ佐藤がその時間帯にいることを確認して犯行に及んだという話もない。武の話によれば、5月の下旬から、八木は何度も永山荘に来て、詳細極まる犯行計画を練ったというのである。当日ディナーショーから帰って赤ちょうちんで鹿野を帰すという、どちらかというと瑣末な部分についても念入りに打ち合わせをしたと言うのである(第5回証言調書)。しかし、一連の計画は午後3時に佐藤が渡辺荘にいなければすべて崩壊する。それは分かりきったことである。そうであるにもかかわらず、どうやってその時間帯に佐藤が渡辺荘にいることを確実にするかという、犯行計画中最も大切な部分について話し合われた形跡がまったくない。当時佐藤は会社を辞めてぶらぶらしていたとは言え、昼日中に確実に家にいるという状態ではなかった。アナリエの証言によれば、佐藤は元気で自転車に乗って出かけたりしていたというのである(アナリエ第38回証言調書)。そうであれば、その時間帯に佐藤が確実に部屋にいるように手を打つ必要がある。そして、例えば、当日、佐藤が自宅にいることを確認した上で、計画を実行したはずである。ところが、これらの話し合いや行動は一切証言には現れていない。

裁判官は次のように反論する。

確かに被告人らの行動は大胆極まりないといえるが,関係証拠によると,大家である渡辺兼子ですら佐藤がいつの間にか渡辺荘に住んでいたなどと供述している状態であることに照らすと,付近の住人が佐藤の住む渡辺荘の様子に無関心であった状況が看取される上,共稼ぎの所帯が多いなど付近の状況如何によっては深夜の犯行の方が却って人目につくとも考えられるのであって,犯行が白昼行われたことをとらえて一概に不自然であると断じることはできない。そして,佐藤には当時,被告人ら以外に,日ごろから付き合いのある親しい友人はとりたてていなかったと認められるから,被告人らは,とりあえず鍵をかけて外出すれば,他人が入り込んで佐藤の死体を発見するおそれはないとの判断のもとにアリバイ作りのディナーショーに出かけるなどの行動をしたとも考えられるのであって,武の証言する犯行態様が不自然であるとまではいえない。

また,***当初長期計画を立てて余裕を示していた被告人が,やがて時間の経過とともに事態が思いどおりに進展しないことに焦りを感じ,ついに殺害に踏み切るというのは極めて自然な推移であって,格別違和感を抱かせることはない。

***関係証拠によれば,当時,佐藤は仕事を辞めて日中も渡辺荘でぶらぶらしていたというのであり,弁護人が指摘するアナリエ証言によっても,佐藤の行き先は,たばこを買いに行く程度だったというのであるから,当日佐藤は渡辺荘に在宅するか,仮に出かけていたとしてもすぐに戻ってくる状況にあったことはほぼ確実というべきであり,被告人らが佐藤が渡辺荘にいることを前提に計画を立てていたとしても何ら不自然ではない。もとより,佐藤が長時間外出していればこの日の計画は失敗に終わったであろうが,その場合にはまた次の機会を窺えばよいだけのことであって,武の証言する犯行計画が一分の隙もない完全なものではなかったからといって,その証言が虚偽であることの証拠になるというわけではない。

 

渡辺荘の大家は渡辺荘4号室の北側に住んでいるが、敷地は別であり、渡辺荘側には広い庭が面している。大家は別に佐藤の生活に無関心だったわけではない。同じ敷地の住民が共稼ぎ夫婦ばかりだったなどという証拠はどこにもない。そして、共稼ぎ夫婦がいたとしても、深夜には自宅に戻っているだろう。佐藤は坂東大橋を渡った伊勢崎に住んでいたことがある。そもそも佐藤がレオの常連になったのは、伊勢崎に住む友人とともに立寄ったのがきっかけである。そして、佐藤はサラ金業者から多額の借金をしており、ときどき都内の業者が取立にきている。そのことを八木も武もよく知っていた。佐藤が必ず自宅にいるという保証もなかったし、誰かが渡辺荘に佐藤を訪問する可能性もあったのである。勿論「一部の隙もない」完全犯罪などというものは、不可能に近いだろう。問題はそういうことではない。

裁判官は、それまでの計画が思い通りに進まないことに八木が焦りを感じていたと推測しているけれども、別の箇所で、裁判官は「長年にわたって多量のアルコールを飲酒させたり、睡眠不足となるように仕向けたり、さらには少量のトリカブトを一定期間継続的に摂取させるなどしたため、[佐藤は]やせ細って[いた]」などと述べている。これが本当だとすれば、武がいう「過労死作戦」「成人病作戦」は見事に効を奏していたことになる。そして、長期間生命保険料を支払うことについても、八木は、佐藤の給料の中から支払うので「自給自足なんだ。だからおれは何年かかっても,どんなに長くかかっても,おれの場合は腹が全然痛くないんだ」と豪語していたというのだから(武まゆみ第4回証言調書)、時間をかけてゆっくり佐藤を衰弱させることことこそが、八木の犯行計画であったことになる。この計画を変更しなければならない事情はどこにも見当たらない。

「5月10日ころに偽装自殺に失敗した」

 

武は、平成7年5月10日ころに八木からいきなり電話で「今日の夜」偽装自殺計画を実行すると告げられ、当日の午後8時30分頃に利根川の河原で佐藤と落ち合い、八木に指示された通りビールに焼酎を混ぜたものを佐藤に飲ませたところ、佐藤が寝込んでしまったので、渡辺荘に連れて帰り、八木の指示で佐藤を車で坂東大橋のたもとまで連れて行き、坂東大橋に向って歩いていく佐藤を見送って帰ってきたが、その1日か2日後に佐藤を赤ちょうちんで見かけた、と証言した(第5回証言調書)。

この証言は非常に不自然である。偽装自殺計画にとって重要な役割を果たすはずの「遺書」をどうしたかについて全く言及がない。予定では、1通は置手紙、1通は佐藤自身が自転車で本庄駅に向かう途中のポストで投函する計画になっていたと言うのに、決行当日、誰からも遺書の話は出ず、武まゆみがレオのロッカーに預かったままになっていたという。

佐藤は、坂東大橋のたもとで武と別れた後どこで何をしていたのだろうか。武証言ではこの点がまったく語られていない。この点についての武と八木との会話も全く登場しない。決行直前、焼酎入りビールを飲んで寝入った佐藤に対して八木は、わざわざ渡辺荘に出向いて「今日しかチャンスがないんだから、ちゃんとやらなくちゃだめだよ」と叱咤したという。そうであるならば、その翌日か翌々日に赤ちょうちんに舞い戻ったという佐藤に対して、八木や武が、少なくとも、「あのあとどうしたの?」と質問するはずである。彼らが質問しなくとも、佐藤の方から、何らかの説明なり弁解が出るはずである。

アナリエは平成7年1月24日に日本を出国し(東京入管H12/12/13回答;アナリエ第28回証言調書)、再来日は5月19日である(H12/12/19捜査報告書;アナリエ第38回証言調書)。アナリエは、4月9日にフィリピンで出産し、そのことを八木に電話で知らせたところ、八木から「日本に戻って来い」と言われたが、出産直後でもあり母親から「まだ帰らないほうが良い」と言われたこともあって、来日のめどは立たなかった。この電話の後にアナリエが八木と連絡をとったのは5月13日ころであり、この段階でもまだ来日の具体的な日程は決っておらず、アナリエは「5月中に帰りますよ」としか告げていない(アナリエ第49回証言調書)。そして、アナリエが来日の具体的な日程を伝えたのは、来日の2日前の5月17日である(同前)。したがって、5月10前後にはアナリエは再来日するかどうかもわからない状態だったのである。

武証言によると、「佐藤さんの奥さんであるアンナがいないと、保険金の請求をしたりとか、その後、いろいろと警察から事情[聴取]を受けたりとかいうことがありますが、それに対してアンナがフィリピンに帰ってると、いろいろと面倒くさいことになっちゃうから、佐藤さんが死ぬ前に日本にいた方がいい」と八木は言っていたという(武第5回証言調書)[1]。この時期に偽装自殺を決行するというのは、この計画に全く反する。

この点を尋問されて、武は「待ってられなかったんだと思います」とか、八木には「用意周到な人」という側面と「思い立ったらすぐに行動しなくては気が済まない」「子供のようなところがあります」とか説明を試みているが、いずれも説得力がない。そもそも、武証言によれば、八木は、焦らずに時間をかけてやることが保険金殺人を成功させる秘訣であるとか、佐藤の保険料の支払いは「自給自足」であるなどと言って、時間をかけてゆっくりと佐藤の死を待つという戦略をとることを武に吹聴していたというのである(第4回証言調書)。そのような八木が、土壇場に来て、それまでの計画を無視して、アナリエが日本にいつ戻ってくるか分からないこの時期に計画を実行しなければならない事情の変化はどこにもない。

われわれの指摘に対して、判決は次のように答えている。まず「遺書」についての行動がまったく語られていない点について、判決は「遺書については佐藤が飛び込んだ後に置き手紙として渡辺荘に置いておくことでも十分にその役割は果たせるから,あらかじめ遺書をどうするかに関する会話がなくても不自然とまではいえない」という。

武の証言によれば、「遺書」は2つあり、1通は「投函用」1通は「置手紙用」と区別されていたのである。そして、この5月10日ころには2通ともレオ店内の武のロッカーに保管されていたというのである。武が語る犯行計画からすれば、「自殺決行」の前に「投函用の遺書」を佐藤に渡しておかなければならない。後で渡辺荘に置いておくことでも「役割は果たせる」と裁判官が考えるのは自由である。しかし、問題は裁判官がどう考えたかではなく、武や八木がどう考えたかである。武の証言には、この唐突な計画変更についての説明がまったくない。「焼酎入りのビール」を飲ませるという細かい指示については忘れていないのに、遺書を佐藤に渡すという肝心の部分を忘れるというのは、どう考えてもおかしい。そして、本当にこの重要事項を忘れたのであれば、そのことについて武と八木との間で何らかの会話があってしかるべきである。ところが、武の証言にはそのような場面は全然登場しない。

佐藤が計画を実行せずに1日か2日後に赤ちょうちんに現れたというのに、彼のその後の行動についてのやりとりが登場しないという点について、判決は、武の証言を引用して「『飛び込みを決行しなかったことについて佐藤を責め立てると,もともと余り乗り気でなかった佐藤が怖じ気づいて本当に逃げ出してしまうかもしれないから怒らなかったと八木さんから聞いている』旨証言しており,***この態度もあながち合理性を欠くものではないといえる」という。ここでも裁判官は問題をすりかえている。佐藤を責め立てるかどうかに関係なく、利根川に飛び込み行方をくらませるはずだった人物がひょっこり現れれば、「どうしたの?」「いやあ、ちょっとね」ぐらいの会話があって当然だろう。ところが、武の証言ではこの「5月10日ころ」を境に、佐藤とのあいだのこうした会話は一切なくなるのである。

アナリエが来日しないのに計画を実行したという点について、判決は「被告人は,同年4月9日にアナリエが出産した後は,早く日本に戻るよう強く促していたというのであるから,アナリエが早晩来日することを見越した上で,保険金を請求する時点でアナリエがいれば不都合はないと考えて実行に移したということも考えられる」という。アナリエの証言によれば、出産後彼女は母から来日を止められていた。八木から来日するように言われていたとしても、この段階ではそれに応じるかどうかアナリエは迷っていたのである。どうして「早晩来日すること」を見越すことができるのだろうか。武が語る八木は、愛人たちに細かな指示を与え、相手がその指示を守ったかどうか必ず確認する性癖をもっているという(「確認好きの八木さん」)。その八木が、来日の日取りも決まっていないアナリエの来日を見越して、それまでの計画を無視して唐突に偽装自殺計画を実行してしまうなどということは考えられないだろう。

詳細な謀議がありながら共犯者に犯行を隠そうとしている

武の証言によると、八木は、自分と2人きりのときにはトリカブトの根っこは「丸々1個全部使え」と指示したのに、考子やアナリエの前では「いつもの2倍入れろ」と言ったという(第6回証言調書)。この言い換えの理由について、武はつぎのように説明する。

[八木が] みんなのいる前で「2倍を入れろ。」とわざわざ言ったのは「おれはマミには2倍の量を入れろとしか命令していない。」そして「もし佐藤さんがトリカブトで死んだのなら、マミが勝手に量を間違えて佐藤さんが死んじゃったんだ。」と考子さんたちに思わせるため、そして考子さんたちが警察から何か聞かれたときにも、八木さんはちゃんと2倍の量と言っていましたと証言してもらうため。ですから八木さんは「おれは2倍としか言っていない。マミが間違えたんだ。」と、そういう言い訳をするために、わざわざ人の前で2倍の量を入れろと言ったんだと思いました。(同前)

 

つまり、八木の発言は、自分が武に殺人の指示をしていないと思わせるためであったというのである。しかし、他方で、武は、はっきりと、この6月1日の別荘での話し合いで、6月3日にトリカブトで佐藤を一気に殺す計画が考子やアナリエに伝わったと証言している(同前)。しかも、この引用箇所に続けて、八木は「ディナーショーに行っている間に[佐藤は]死んでいるだろう」と言ったと証言している、つまり、「いつもの2倍」入れることで佐藤が死ぬのを予期する発言をした、と言うのである。これは変な証言である。

そして、6月3日の行動について詳細な打合せがありながら、当日には、わざわざ考子に気づかれないようにレオを出て、一旦帰った振りをして、赤ちょうちんに行ってトリカブト入りあんパンを仕込むように八木は指示したというのである(第5回証言調書)。これも非常に不合理なことである。この矛盾について武はつぎのように説明している。

トリカブトの細工をしているのが赤ちょうちんの店であるということを知っているのが私と八木さんだけでしたから、八木さんはその秘密を知っている人数は最少人数がいいと考えていました。ですから、考子さんがその時点で赤ちょうちんで細工をしていることを知らなかったのですから、それを知られたくないと思ったからだと考えていました。

***八木さんは、いつも私に、秘密を知っている人数は少ない方がいい。完全犯罪にするためには、肝心な部分というんですか、知っている人数はできるだけ少ない方がいいということを言っていましたから、ですから八木さんの考えが分かりました。(第6回証言調書)

 

しかし、もしそういうことであるならば、最初から最後まで2人だけで犯行計画を立案して、それを実行すればいい。レオの店内で聞こえよがしに「俺には完全なアリバイがある」などと言ったり「ディナーショーの日にやる」などと豪語する必要はないし、別荘にアナリエや考子をわざわざ呼び出して佐藤殺害の謀議をする理由もなかろう。

6月1日に別荘で八木が考子やアナリエの前で「いつもの2倍入れろ」と言った点について、判決は一言「経験したとおりの事実を述べていると考える方が合理的といえる」と言って済ませた。武の説明の不可思議さについては何も論じていない。

この「いつもの2倍」というフレーズの起源は森田考子にある。次章で詳しく述べるが、平成12年8月に入って、考子は、八木と武との間の断片的で多義的な会話を次々と思い出し、それを佐藤殺害に関連付ける「上申書」を作成していく。その中に、平成7年6月1日別荘で八木が武に「いつもより量があるからそれなりに入れればいいがね。あとはマミちゃんにまかせるから」と言うのを聞いたという話しが出てくる(考子H12/8/1上申書)。考子はこの会話を「植物のクキか根っこ」のことだと説明しているが、具体的な会話にはそれが登場しない[2]。しかし、やがてこの話がベースになって、トリカブトの根っこを「いつもの2倍入れろ」と八木が考子やアナリエの前で指示したというストーリーになっていくのである。そして武は佐久間検事から考子の供述を教えられ、それを基に「記憶のふた」を開けていくのである。判決が言うように「経験したとおりの事実を述べている」のであれば、「いつもより量があるからそれなりに」という意味が判然としない発言が「いつもの2倍入れろ」という明確な指示の言葉に変化する訳はなかろう。あいまいな会話の切れ端の記憶をたよりに推測を交えて作り上げられた話だから、このような不可解な変動を見せるのである。

「共犯者」であるはずの考子に分からないようにパンを細工するように八木が指示したという点について、判決は武と同じ説明をしている――「司直の手が入った場合を想定すると犯行に関する知識は最小限にしておいた方がよいと考えることはごく常識的なこと」だと言う。

しかし、武は、この日4人がわざわざ別荘に集まり、「いつもの2倍」を「パン」に入れて佐藤を一気に殺すことを話合い、かつ、八木は犯行当日のそれぞれの行動を事細かに指示したと証言しているのである(第6回証言調書)。犯行に関する知識を「最小限」にしようなどという姿勢は微塵もうかがえない。「トリカブト」という単語だけが会話から欠落していることが異様に映るのである。

なぜ「謀議」の内容がこのようにちぐはぐなものになったのか。それは先に指摘したように、謀議のストーリーの素になったものが、取調べ中に考子の脳裏に突然甦った断片的な会話をつなぎ合わせたものに過ぎないからである。

森田考子は、平成11年5月末から6月下旬にかけての任意の事情聴取の段階から、1人だけ他の3人との連絡を絶ち、八木の指示で武とアナリエが「毒を関さんに飲ませていたはずです」(考子H11/5/31警察官調書)と供述していた。彼女は、逮捕されるとすぐに風邪薬事件の「共犯者」であることを認める供述を行なった。そして、佐藤修一の死についても「何らかの形で殺しておいて保険金を騙し取ったのではないかと内心疑っていた」と最初から供述していた(考子H12/3/39検察官調書)。しかし、いずれも推測を述べるだけの供述であり、具体的な事実は何も語られていない。その後も佐藤がどように殺されたのかについて具体的な供述をすることは一切なかった。その彼女が、逮捕から4ヶ月経った8月に入り突然次々に「上申書」を書くようになる。平成12年8月1日、彼女は八木の別荘で4人で「佐藤修一を殺す相談」をしたと言い、そこで次のような会話が行なわれたと言った。

まみ「まんじゅうがなくなって来たし佐藤さんもまんじゅうがあきたのでパンの方がいい」

まみ「アンナがパンを渡しても食べなくちゃ何の意味もない、私が渡せば佐藤さんは食べるよ」

八木「いつもより量があるからそれなりにいれればいいがね。あとはマミちゃんにまかせるから、まみにまかせておけばベテランだから、うまくやってくれるだろう」(H12/8/1上申書)

 

これが武の語る「別荘謀議」の起源であることは明らかであろう。当時武は、佐藤修一に微量のトリカブトをまんじゅうやパンに入れて毎日のように与えていたという供述をしていた。しかし、佐藤はトリカブトで死んだのではなく、坂東大橋から利根川に飛び込んで死んだのだという話しも同時にしていた。佐藤が自分で利根川に飛び込んで死んだのでは「殺人」ということはできない。捜査官はなんとか佐藤の殺人を立件したいと考え、4人のなかで一番弱い森田考子に、トリカブトの根っこをまんじゅうやパンに入れて食べさせていたという武の供述を伝え、「佐藤をトリカブトで殺したのではないか」と繰り返し迫ったに違いない。そうしているうちに彼女は、この別荘での会話の断片を「思い出した」のである。しかし、「トリカブト」という言葉はどうしても思い出せない。捜査官の方でも考子が突然に「トリカブト」を語るようになるのは不自然だと考えたのだろう。彼女はこの上申書のなかで、武や八木が語っているのは「植物のクキや根っこのどく」(ママ)だと書いている。しかし、彼らの会話にそれは登場せず、なぜ考子がそう考えるのかについての説明は一切ない。おそらく、刑事と考子との間で次のようなやりとりが行なわれたのだろう。

刑事:「いつもより量がある」って何のことだ。

考子:わかりません。

刑事:何かの毒か。

考子:多分そうです。

刑事:何の毒だと思う。

考子:わかりません。

刑事:何かの植物の茎か根っこじゃないのか。

考子:たぶんそうです。

 

こうして八木と武の会話の主題は「植物の茎や根っこの毒」ということになり、したがって、この会話は「佐藤修一を殺す相談」に違いないということになったのである。その後この会話にはさまざまなディテールが付け加えられ、平成7年6月3日ディナーショーの日に佐藤を殺害して、その死体を利根川に流す犯行計画の詳細な打ち合わせということになっていく。佐久間検事の前で「あんパンの絵」の啓示を受けた武に、この考子の話が伝えられ、武はそれをもとにさらに詳細なストーリーを作話する。それがさらに考子やアナリエに伝えられ供述はどんどん進化していく[3]。こうして「6月1日別荘謀議」のストーリーは完成し、3人は法廷でその完成したストーリーを語ったのである。しかし、もとを質せば、それは考子が刑事からしつこく追及された結果苦し紛れに語った会話の断片に過ぎず、「トリカブト」という肝心の言葉が欠落した話しである。であるから、犯行計画の詳細を話し合いながら最も肝心の部分は考子やアナリエには隠されているという不自然なものにならざるを得なかったのである。

着衣に関する説明

 

佐藤修一は、素肌のうえに襟首と袖口を切断された革ジャンパーを着け、そのうえに丸首セーターを着て、足には靴下を二重に履きその間に靴の中敷を入れ、靴下を紐で足首に縛りつけるという特異な服装で発見された(H12/10/30捜査報告書)。その理由について、武は次のように説明している。

中敷 平成7年5月下旬にレオで考子やアナリエもいる前で、八木が「佐藤さんは長旅に出るから、わらじを履かせなくちゃならない」と言い、彼は自分の足元を見て、「あ、中敷きが使えるかな」と思い付き、靴の中敷きをわらじの代わりに使うことを決めた(第6回証言調書)。

革ジャンの襟 渡辺荘で佐藤の死体に革ジャンを着せようとしたときに、八木が、革ジャンの襟に枝か何かが引っ掛かって脱げたら困るので「襟を切り取ろう」と言った(同前)。

革ジャンの袖口 革ジャンの袖に佐藤の左腕を通そうとしたら、指先が固まっていて引っかかって通らなかったので、私が「袖口も切ったほうがいいんじゃないか」と言って袖口を切ることになった(同前)。

セーター 革ジャンを着せ終わった後、八木が「このままだと襟を切り取っちゃったから、首からすっぽりジャンバーが脱げちゃうかもしれない」と言い出して、そのうえからセーターを着せることになった(同前)。

靴下の紐 平成7年5月下旬に永山荘で八木と殺害計画について話し合っているときに、八木が、佐藤はいつも靴下を二重に履きひもで縛って留めていると言い、そうすることにした(第5回証言調書)。

 

 

これから毒殺しようとしている人に、死出の旅支度をさせようという発想をするだろうか。そのこと自体甚だ異常である。そのうえ、靴のインナーソールを「わらじの代わり」にしようというのもあまりにも突飛な発想ではないか。「自殺」を装うわけだから、自殺する人はどんな格好をするかをまず考えるはずである。あなたは自殺する人が死出の旅支度のわらじの代わりに靴のインナーソールを二重に履いた靴下の間に入れるという想像をするだろうか。

この点について、さいたま地裁判決は「武は、被告人の発言を聞いたまま証言しているものと認められる。仮に武が偽りの記憶を想起したのだとすれば、このような意味不明な記憶が想起されることはおよそ考えられない」と指摘している。不自然なのは武ではなく、八木だという訳である。しかし、八木がそのような突飛で「意味不明」の発想をしなければならない理由は一体どこにあるのだろうか。「偽りの記憶」が合理的なものに限られるというのは裁判官たちの勝手な思い込みである。アメリカでは、親から性的虐待を受けたという「記憶」を甦らせた人が、さらに進んで自分の親がカルト集団のメンバーであり、夜毎に集会を開き妊婦を堕胎させたり嬰児を殺す儀式をしていたことまで語り始めるという例が多数報告されている(Loftus1994; Ofshe & Watters1994; Wright1999)。また、前にも書いたように、武には作話癖がある。刑事から、佐藤は靴下を二重履きにしてその間に靴の中敷を入れていたと説明された彼女は、死者にわらじを履かせて葬ることを連想して、八木がそれを思い付いたという話を考えたのだろう。

川の中で何かに引っかかるかもしれないから襟を切るというのも理解できない。革ジャンの写真(写真5-6)をみれば分かるように、その襟はさほど大きなものではなく、そこに何かが引っかかったからといってジャンパーが脱げてしまうと考えられるようなものではない。ジッパーを襟元まで閉めれば「何かに引っかかって脱げる」とは考え難い。武は、死体発見の際に佐藤の身元が分かるように革ジャンを着せたと言うのだが(第5回証言調書)、さいたま地裁判決が指摘したようにこの革ジャンは「平均的な色とデザイン」であり身元確認の指標としては迂遠である。佐藤のお腹には十二指腸潰瘍の手術の痕があり、歯もだいぶ抜けていた。そのことを八木は知っていた。それで身元の確認はできるはずである。さらに言えば、靴下を二重履きしたうえ紐で縛るという非常に特徴的な服装を施したのである。革ジャンにこだわる理由はないだろう。

佐藤の革ジャンの袖口は皮製ではなくゴムのような伸縮性のある素材でできている。少し広げれば指先を通すことは簡単にできる。わざわざ苦労してその部分を切り取る必要は全然ない。この伸縮性のある袖口をそのまま残しておいた方が袖が佐藤の腕にフィットしより脱げにくくなる。

ジャンパーが脱げないようにするために襟首を切ったのに、それを見て「襟を切り取っちゃったから、首からすっぽりジャンバーが脱げちゃうかもしれない」と言うのは、明らかな矛盾である。襟が切り取られた革ジャンは丸首のシャツのように首回りに添う形になる。これを見て「首からすっぽりジャンパーが脱げちゃう」などと発想できるものではない(写真5-7)。

【写真5-7 死体発見時のジャンパー】

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武は、それぞれの着衣を佐藤に着させる理由とそれに関する八木との会話を克明に証言した。そして、確かに自分たちがそれらのものを佐藤の硬直した死体に着せたのだと断言した。そこで、われわれは、首や関節が人間と同様に自由に動く等身大の人形と着衣を法廷に持ち込んで、武自身に着せ替えの状況を再現するように求めた。すると、武の証言態度はとたんに精彩を欠きはじめ、「覚えてない」「分からない」という発言を繰り返した(第22回証言調書)。

着衣を着せる直前の佐藤の姿勢について、「仰向け」という以外には「分からない」;ズボンを履かせるとき八木が佐藤のどちら側からどのように腰を持ち上げたか「その辺ははっきり分かりません」;ズボンのボタンやファスナーをとめるとき、八木がどの位置にいたかも分からない;中敷の素材がどんなものであったか「分からない」;中敷をどうやって履かせたかについて「アンナのほうに押さえていてあげたのは覚えているんですけど。自分のほうはどうやったのか、ちょっと分からないんですけど」;靴下を紐で縛った動作について、自分がどのような格好で紐をしばったか全く思い出せない;靴下をしばった紐の長さや太さもはっきり覚えていない;アナリエが紐を縛ったときの動作も覚えていない;革ジャンを着せるために佐藤の上体を起こしたとき、腕が真っ直ぐだったかどうか覚えてない;革ジャンの袖を通すために左腕を持ち上げたが、どの位置をもったのかはっきりしない;革ジャンの片方の袖をとおしたときの映像の記憶はない;袖口を持ったのは覚えているが、誰が切ったのかは覚えていない;右袖を八木がどうやって腕に通したかについて、どの部分をどのようにして曲げたのか分からない;誰がどのようにしてジャンパーのファスナーを上げたのかは分からない;セーターを誰がどのようにして着せたか覚えていない;セーターを着せた後革ジャンの襟がどうなっていたか分からない。以上である。――これが、全身硬直した死体に苦労して衣類を着せるという特異な体験を実際にした人の証言だろうか。

 

佐藤修一は普段から特異なスタイルをしていた。勤務時間中もホームレスがやるようにシャツを重ね着したり、靴下を二重に履いて紐で止めるというような格好をしていた(田中泰郎証言調書)。また、サンドブラストという作業をするときに鉄砂が体に当たるので、作業着の中に革ジャンパーを着ていた。しかも、自らその襟や袖口を切ってそれが作業着からはみ出さないようにしていたのである(堀野敏和・八木茂樹証言調書)。武の「偽装自殺供述」によると、佐藤は、偽装自殺の打合せをしていたときに体を冷やさないために「革ジャンで飛び込むよ」と言っていたというのである(武第4回証言調書)。これを前提に考えると、佐藤は自ら――既に襟や袖口を切断してあった――革ジャンパーを着て利根川に飛び込んだと考えるのが合理的である。そして、佐藤は普段から二重履きの靴下の間に靴の中敷を入れていた可能性がある。さらに「偽装自殺」を前提に考えると、彼は、川を泳ぎきるためには靴を脱いで飛び込む必要があり、川底や河原を歩かなければならないことを予想して、足の裏を保護するために靴下の間にそれを入れたとも考えられる。

この最後の点について、さいたま地裁判決は「被告人が供述するとおり、佐藤が本当に自殺するつもりであったのであれば、川を泳ぐ必要も、川底や河原を歩く必要もないのであるから、弁護人の説明は成り立たない」などと反論している。しかし、これは全然反論になっていない。確かには八木は、佐藤の当時の言動から見て本気で自殺すると思ったと法廷で述べている(八木最終陳述書)[4]。しかし、そのことは佐藤がどういうつもりで川に飛び込んだのかということと必ずしも結び付かない。八木は、自分の知らないところで武と佐藤の間で細かい打合せがなされていたのではないか、「僕の知らないところで、色仕掛けの旨い武が、そそのかしたのでは、と今は思っています」と述べている(同前)。武が語る「偽装自殺」は八木の発案で八木が武に指示したというものであるが、八木はそのような指示をしたことはないと言っている。この八木の供述が正しいとすれば、八木は佐藤が本気で自殺すると思っている一方で、武と佐藤との間では「偽装自殺」の計画が練られ、佐藤はそれを実行したということになる。そうだとすれば、彼が川底や河原を歩くために靴下の間に靴の中敷を入れたということも説明がつくのである。

 

武は、捜査の過程において、それまで全く記憶していなかった「着せ替えの場面」を閃きと推理によって創造していったのである。武は、平成12年10月27日に、「アンナがハサミを持って立っている」映像が閃き、その日の日記に「ハサミは皮[ママ]ジャンのそでとえりが切られているから、それを切ったものではないか?」との推理を書いている(武ノート6冊目)。11月1日の日記にも「その後、死体を運ぶために、アパートへ行ったらしい。その時に、洋服を着せたのではないか?」との推測が述べられ、ようやく、11月11日になって、「私は、『じかにジャンバーを着せたら変だよ』と言った覚えはある」「八木さんが『ジャンバーがぬげたら困る』と言っていた」という閃きが現れ、この閃きに基づいて「それで上にセーターを着せたのでは?」という推理が語られている(武ノート8冊目)。革ジャンの襟と袖口を切ったことやそのうえにセーターを着せた情景が閃くのは、その9日後の11月20日であり(武ノート9冊目)、「わらじ」に関するエピソードが現れるのは、さらに10日後の11月30日である(同前)。武は、捜査官から佐藤の服装を示されて、それに添う出来事を思い出そうと努力して、バラバラに閃く映像や音声を頼りに、推測を交えて、「着せ替え」のストーリーを作り上げたのである。

このように着せ替えの場面は、武の想像力と推理力の賜物なのである。現実の体験をそのまま語ったものではないのである。だから、詳細であるにもかかわらず、説明ができなかったり、客観的にあり得ない話になったり、当然説明されるべき経過が欠落してしまうのである。

「置手紙用の遺書」をめぐって

 

武の証言によれば、永山荘で犯行計画を詳細に指示された際に、昼間アナリエと買物に行く途中で1通の遺書をポストに投函するとともに、もう1通は佐藤を殺した後に渡辺荘に「置手紙」として置いておくことも指示されていたと言う(第5回証言調書)。そして、6月1日に別荘で犯行計画を4人で話し合ったときにも、八木は「1通の遺書は昼間のうちに出しておけ。そしてもう1通は夜にマミが持っていけ」と言ったというのである(第6回証言調書)。

ところが、彼女の証言によると、2通目の「置手紙用の遺書」はこの計画とは全く異なる使われ方をしている。武証言は次のとおりである――死体を利根川に投棄してからレオに戻り、別荘に出発するときになって「置手紙用」の遺書を渡辺荘に置いてくるのを忘れたことに気付いた[5];八木に言うと彼はひどく怒って「そんな大事なもの、忘れるばかがいるか」と言ったが、「でも、忘れちゃったんじゃしょうがねえ、出掛けるときに一緒に持って来い」と言った;「置手紙用」はひらがな書きで、封筒の表面に住所も書いてなく、切手も貼っていなかった(7-23)[6];武はレオからこの遺書を持って八木宅に向かい、車に乗ったままそれを八木に手渡し、八木は一旦自宅に戻り、少しして住所が書いてあり切手が貼ってある遺書を持って車に乗り込んできた;そして八木は「郵便局に向ってくれ」と言った;東秩父の別荘への道をそれて、途中のポストを通り過ぎて、本庄郵便局前のポストに投函した;八木は「郵便局にあるポストが一番早いから」と言っていた(第7回証言調書)。

この一連の行動は全く不合理である。レオから渡辺荘は車で1分徒歩でも5分とかからずに行ける。したがって、レオを出発する前に遺書に気付いたのであれば、そのときに誰かが歩いて渡辺荘にそれを持って行って置いてくれば済む話である。また、渡辺荘は八木の自宅のすぐそばであるから、八木宅に寄る前後に遺書を渡辺荘に持っていくことは簡単にできたはずである。

しかも、アナリエの証言によると、レオから別荘に出かける前に、八木が彼女に「洋服を持ってきたか」と尋ね、彼女が「持ってません」と答えると、八木は「じゃ、アンナは先に帰って、渡辺アパートに洋服を取りに行って、それから外に[出て]待ってて、迎えに行くから」と指示し、彼女は、この指示に従って、着替えをとりに渡辺荘に戻り、八木らがアナリエを渡辺荘まで迎えに行ったということである(アナリエ第46回証言調書)。そうだとすれば、置手紙用の遺書をアナリエに渡し、彼女が着替えのために渡辺荘に戻るときに遺書を持って行かせることもできたし、また、八木らがアナリエを迎えに行くついでに遺書を渡辺荘に置いてくることもできたのである。

さらに言えは、「置手紙用の遺書」はこの日に渡辺荘に置いておく必要すらない。警察に捜索願を出す際に、「こんな手紙が置いてありました」と言ってそれを警察に提出すれば済むはずである。いずれにしても、八木が武を叱る必要は全然ないし、わざわざ切手を貼ったり郵便局まで遠回りして投函する必要は全然ないのである。

さいたま地裁の裁判官たちは次のように武を擁護する。

遺書を投函して消印を得ることによって,行方不明になった時期と遺書が投函された時期を客観的に一致させ,より本物らしく見せるという効果があることを新たに思いついたとも考えられるから,被告人が置き手紙をやめてポストに投函することにしたとしても,特段合理性を欠くとはいえない。仮に武が故意に虚偽の証言をしているのであれば,当初置き手紙にするはずだったなどという複雑な証言をする必要は全くなく,単にポストに投函したことだけを証言すれば足りるのであるから,武は被告人から聞いた言葉をそのまま正直に証言しているとみるのが自然で素直な見方といえる。

 

武が言う「別荘謀議」では「午後3時にアナリエが買い物から戻ったら佐藤さんはいなかった」ことにする計画であった(第6回証言調書)。そして、武は、6月3日の昼間にあさひ屋前のポストに「投函用の遺書」を投函したという(同前)。八木たちが別荘に向かって出発したのは翌4日の午前3時過ぎだというのである(第7回証言調書)。「行方不明になった時期と遺書が投函された時期を客観的に一致させ、より本物らしくみせる」という発想から考えて、昼間に投函した方がその目的に沿うものであることは明らかだろう。武の証言を前提にすれば、4日未明の投函は、佐藤の死後の投函ということになってしまいかねない。

武がこのような「複雑な証言」をしたのには理由がある。前にも述べたように、佐藤の父太代人は早くから「漢字かな混じりの手紙」を八木から見せられたと供述していた。だから武は、存在が明らかな「ひらがなの遺書」のほかにもう1通、合計2通の「遺書」が存在することを前提にストーリーを語らなければならなかったのである。そして、本庄警察に提出された「ひらがなの遺書」は封筒に入れられ、切手が張られ、住所も記載され、郵便局のスタンプが押してある。佐藤太代人が見せられた「漢字かな混じりの手紙」にも切手、住所、スタンプが揃っていたという(佐藤太代人証言調書)。つまり、「遺書」は2通とも郵便局が配達したものでなければならないのである。しかし、最初から同じ人物あての遺書を2通用意して2通とも投函する計画だったというのは、いかにも不自然である[7]。だから、武は、1通は「置手紙」のはずだったが、偶然の成り行きでそれも投函することになったと供述する必要があったのである。

渡辺荘から利根川死体投棄現場までの道順

 

渡辺荘を出てからどのような経路で死体を投棄した現場に行ったのかについて、武は極めて不自然な証言をした。すなわち、渡辺荘から河原までの道順は全く言えないのに、河原に入る直前から先の道順について異様なほどに詳しい証言をしたのだ(第7回証言調書)[8]。河原からの帰り道も、河原から一般道に出るところまでは詳しいのに、一般道に出た後は全く供述できない(同前)。

時刻は深夜であり、河原は照明設備もなく真っ暗である。途中の外灯や商店などが立ち並ぶ一般道を覚えておらず、なにもない茫漠たる暗闇の河原の道順だけを詳しく覚えているというのは変である。武は、河原の道順を覚えている理由についてこう言う。

***夜のことですから、暗かったし、河原に下りてからは草もいっぱいあって、周りの様子とかっていうのはあまりよく分からなかったのですが、車のライトで、前の道幅が狭かったとか、広かったとかいうことくらいしか分かりませんでした。でも、今、私が説明したのは、私の車に乗ったときの感覚で覚えていることで、それで説明しました。(第7回証言調書)

 

6年前に真っ暗な道を走った道順を「車に乗ったときの感覚」[9]で覚えていられる人が、明るい一般道の道順を言えないなどということはありえないだろう。

武が、渡辺荘から死体投棄場所への順路に関する供述を最初にしたのは平成12年12月10日である(同日付警察官調書)。その日の調書をみると、死体投棄場所までの順路に関して「私が断言できるのは、利根川の土手に出る手前の信号機のところに小さな消防小屋みたいな建物があって、そこに赤い電気がついていたということです」ということであり、その先に同級生の家がやっているパーマ屋があるところを進んで土手に向ったのだろうという推測が述べられているに過ぎない。そこから先については、

土手を降りてから死体を捨てるまでの間は、砂利道を割合と長い間走ったような記憶があるのに比べて、死体を捨ててから土手に超える[ママ]までの間は、それ程長い時間走ったような記憶ではありませんでしたので、行きと帰りは別の道を通ったのだと思います。

としか書かれていない。この段階では、武は川原の道をどういう順路で走ったかなどということは全く記憶していなかったのである。

ところが、その翌日に作成された検察官調書(H12/12/11検察官調書)を見ると、公判証言と同じく、川原での道の順路について詳細な供述がなされている。わずか1日の間に武は彼女が言う「体の記憶」を甦らせたのか。勿論そんなことはない。この検察官調書には川原の航空写真のコピーが添付され、道のうえにマジックで線がなぞられている。要するに、武は、この航空写真に写っている川原の道をなぞることで、道順を覚えたのである。そして、このときに暗記した道順を法廷で語ったのである。

 

「マミが押さえたから、こんなことになっちゃったんじゃねえか」

 

武の証言によると、平成7年6月5日、駅前のタクシーに佐藤のことを聞いて回った夜にレオで、八木に怒られてしょんぼりしていると、考子が1メートルと離れていない距離にいるにもかかわらず、八木から「マミが押さえたから、こんなことになったんじゃねえか」と言われ、「だって、マスターが押さえろと言うから、押さえたんじゃない」と言い返した;すると、さらに八木から「人聞きの悪いことを言うんじゃない。お前は、おれがしろって言ったら、なんでもするのか。文句があるんだったら、借金を返してから言え」と大声で怒鳴られたという(第7回証言調書)。

これは、非常におかしな話である。武の証言が正しいとすれば、佐藤修一は、トリカブトの毒で死んだのであって、武が布団を被せたり押さえたから死んだのではないことは明白である。そばでそれを見守っていたという八木がそれを知らないわけはないし、そもそもトリカブト入りあんパンを食べさせて殺すことを計画して指示したのは八木なのであるから、八木が「こんなことになった」などという訳はない。

武は、「考子さんに、おれは関係ない、マミが勝手に押さえたから、そのせいで佐藤さんが死んだんだと思わせるため」に、八木はわざと考子の前でこんなことを言ったと思うと説明する。しかし、これまたおかしな説明である。武の証言によれば、この3日前に、考子も交えて、東秩父の別荘で佐藤殺害計画の謀議がなされていた――八木の口から「まんじゅうはマミが食べさせろ」「いつもの2倍入れろ」と指示があり、この別荘での話し合いのときに、アナリエや森田を含む4人がその計画を知り、その仲間になった――というのであるから、考子に対して、武まゆみの勝手な行動で佐藤が死んでしまったと思わせるなどというのは、全くナンセンスである。

この「マミが押さえたから」という発言が、どのような文脈で行なわれたのか、武の証言では不明である。武は、本庄駅北口でタクシー運転手に話を聞いたことを叱られて「しょんぼりしていたんですが、その後で」としか語られない。その前後の状況、なぜこの話が出てきたのか、などはまったく明らかにされていない。これも不思議なことである。殺人を指示した人物から「お前が勝手にやった」などと言われたら、それは相当にショッキングなことであろう。その前後の状況やどのような話題のときにその話をされたのかを覚えていていいはずである。武の証言では、この八木との会話だけが唐突に現れる。実に不自然である。

この話の起源も森田考子にある。考子は、平成12年10月18日、20通目の「上申書」を作成した。その中で彼女は、「順番ははっきりしませんが思い出した事を話します」と前置きして、八木と武との会話の断片を記録している。

マミが「マスターがやれと言うからやったんだ」

八木が「人聞き悪い事言うなよ。皆な[ママ]だっていい思いするだろうが」

 

この会話に続けて、考子は次のような説明を付記している。

佐藤さんがあばれたんで布団をかけておさえた。その時佐藤さんが何か言おうとした時、八木がマミに「おさえろ」と言うので、マミが顔をおさえたら、動かなくなったと佐藤さんが死んでしまって動かない事を話したのです。(森田考子H12/10/18上申書)

 

武の法廷証言では、彼女は掛け布団を頭からかぶせて肩のあたりを押さえたというもので(武第6回証言調書)、「顔をおさえたら、動かなくなった」というのとはかなり異なるが、これがオリジナルである。この話しがさらに脚色されて武に伝えられる。

武まゆみは、平成12年10月28日の取調べで、佐久間検事から、考子は、武と八木が「もめていた」と言っている、考子は、八木が「何で、押さえたんだ」と言い、武が「だって、マスターが押さえろって言ったから」と答え、さらに八木が「人聞きの悪いことを言うんじゃない。オレが言ったら、何でもするのか」などと言っていたのを聞いている、と伝えられている(武ノート6冊目)。その2日後の佐久間検事の調書に早速その話が、武自身の体験記憶として、登場する(H12/10/30検察官調書)。その翌日(10月31日)の検察官調書では、このやり取りを根拠に「私が佐藤さんを押さえつけたことについては、おそらく八木さんの計算違いだったと思うのです」という不思議な説明がなされている(H12/10/31検察官調書)[10]。11月7日付検察官調書の中で、このエピソードを思い出した経過が語られている。

実際、何一つ思い出せずに時間だけが過ぎ、明日までの宿題として、これこれを思い出しておきなさいと言われて取調べが終わることもありました。

また、突然なんの前触れもなく事件当時のことが思い出されることもありました。

たとえば、私は、検事さんから「八木から押さえろといわれた記憶はないか」と聞かれましたが、そう聞かれたときはその記憶がなかったので、「わかりません」と答えました。

けれど、ほかの場面の話をしているときに、ふと私が八木さんから「人聞きの悪いことを言うな。だったら俺がしろと言えば何でもするのか」と文句を言われたことを思い出しました。

けれど、ここまで思い出しても、それが八木さんが私に佐藤さんを押さえろと命じたことに関するセリフだとは思い至りませんでした。

ところが、別の日に検事さんと違う話をしているとき、ふと私が渡辺荘で八木さんから「押さえろ」と言われ、佐藤さんを押さえつけた記憶がよみがえってきたのです。

八木さんの「押さえろ」という言葉は、夜、房の中で一人でいるときに、耳に八木さんの「押えろ」という声がよみがえってきたので思い出しました。

そして、そのことを思い出したとき、私は、佐藤さんの死後、レオで八木さんから佐藤さんを押さえたときのことを取りあげて文句を言われ、私が八木さんが命令したから佐藤さんを押さえただけだと反論し、八木さんから「人聞きの悪いことを言うな。だったら俺がしろと言えば何でもするのか」と言い返されたことを思い出しました。

 

最終的に「マミが押えたから」という八木の発言に関する物語が完成するのは平成12年12月18日である(同日付検察官調書)。

要するに、考子が聞いたという断片的な会話を佐久間検事から示された武まゆみが、その会話をトリカブト殺人に関する会話であると信じ、それに見合うように、物語を再構成したのである。しかし、元を辿れば、それは、考子が聞いたことがあるという断片的な会話に過ぎない。それは「何で、押さえたんだ」「だって、マスターが押さえろって言ったから」「人聞きの悪いことを言うんじゃない。オレが言ったら、何でもするのか」というだけのものである。考えようによっては、日常生活のなかで、誰にでもありえる、口げんかのような会話の切れ端に過ぎない。検事との共同作業によって、これを前提に、トリカブト殺人の一場面として強引にこじつけたのであるが、所詮は実体のない創作に過ぎない。だから、その不自然さは覆うべくもない。却って、武まゆみの作話癖を際立たせる。

 

「内臓が腐ればトリカブトは出ない」

 

武の証言によると、八木は、内臓の腐敗が進行することによってトリカブトは検出されなくなると言って武を説得し、武が殺害の実行役を引き受けた後も、「内臓が腐るとトリカブトが検出されない」と繰り返し説明したという(第5回証言調書)。

その一方で、6月7日に八木がツヤ子に電話したのは「死体があがったということが聞けると思って、楽しみに電話した」のだと武に説明し、しかも「死体が上がったときに本庄近辺にいない方がいい」という理由で伊豆旅行に行ったと八木は説明したという(第7回証言調書)。つまり、この証言によれば、八木はできるだけ早く遅くとも6月7日には佐藤の死体が発見されることを望んでいたことになる。

そして更に、6月8日にはわざわざ永山荘に来て「これから死体を探しに行くぞ」と言って、早速、八木、武、アナリエの3人で利根川の土手を捜索したという。しかも、死体を発見したらすぐにそれを乗せて警察に届け出られるように赤茶色のワゴン車で出かけたというのだ(第7回証言調書)。

この八木の態度には明らかな矛盾がある。トリカブトが検出されないためにできるだけ長く佐藤の死体が川の水に浸かっていることを期待していたのであれば、これほど早く死体発見を期待したり、捜索したりすることはないはずである。まして、武の証言によれば、死体の腐敗が進んで「顔がわからなくなるから」「革ジャンを着せよう」ということになった(第5回証言調書)というのであるから、相当長期にわたって死体が水中にあって腐敗が進行することをむしろ望んでいなくてはならないだろう。すくなくとも、「これから死体を探しに行くぞ」と言われたときに、こんなに早く死体を探してトリカブトが出はしないかという話題が出てもよさそうである。

そもそも、内臓の腐敗によって薬物の検出ができなくなるなどということは法医学書には書かれていない。一般の本にも書かれていないだろう。武は、八木がトリカブトに関する書籍を読み、詳しい知識をもっていたと言うのであるが、八木が何を根拠に「内臓が腐ればトリカブトは出ない」と言ったのか、何も説明されていない。

武は「内臓が腐るのにどのくらいということではないんですが、八木さんは死体を捨ててから、3日か4日ぐらいたってから死体が上がればいいということは言ってました」などと言う(第5回証言調書)。しかし、ここでも八木が何を根拠に「3日か4日ぐらい」という話をしたのかについては、全く言及がない。市販されている法医学書には、死後どのくらいで体内にある薬物が検出されなくなるか、などということはどこにも記載されていない。ましてトリカブトについてそのような研究はなされていない。トリカブト研究の第一人者である水柿道直ですら、体内に摂取されたアコニチンが時間の経過で加水分解物質に変性する速度について「法則性」は認められないと言っているのである(水柿直道証言調書)。

武証言によれば、八木は、沖縄のトリカブト事件の犯人が逮捕された原因の一つとして、部屋の畳からごく微量のトリカブトが検出されたことを上げたという。また、武証言によれば、佐藤に微量のトリカブトを与えているときにも、トリカブトの痕跡を残さないように、赤ちょうちんの厨房やまな板、包丁などを徹底的に掃除することを指示し(第3回証言調書武)、トリカブトが効きすぎて佐藤が死にかけたときには、八木が取り乱して「出ちゃったら困るんだ」と怒鳴ったり(第4回証言調書)、さらに、偽装自殺計画を実行に移すまえにはトリカブトを与えることを止めさせたりしたというのである(第5回証言調書)。そのような八木が、何の根拠もなしに「内臓が腐れば大丈夫」とか「3日か4日ぐらいたって死体があがればいい」などという根拠のない安直な話をして、トリカブト殺人という大胆な犯罪を実行に移すというのはあり得ない話ではないだろうか。

そしてさらに、武の証言によれば、彼女と八木は、佐藤の死体を利根川に流すときに、死体をそのまま川面に浮かべて、流れるようにモップでつついたというのである。死体が長時間発見されないまま水中に浸かっているようにするための措置――例えば、重りを縛り付けるとか、発見され難い場所を選んでおくとか――を全くとっていない。川面に浮かんだ死体をモップでつついて流すという方法では、死体はすぐに発見されると考えるのが普通である。

さいたま地裁の裁判官たちはこう反論する。

自殺に見せかける場合に,死体に重りをつけることができないことはいうまでもない。また,被告人らは,佐藤の死体を発見した場合に直ちに警察に届ける必要はなく,死体の腐敗状況等を見た上で,しかるべき時間をおいた後に届け出ることも可能なのであるから,届け出ることとは別に,佐藤の死体の在りかを把握しておきたいとの思いから捜索に乗り出したとみれば,被告人らが殺害後4日目から死体探しに乗り出したことは特段不自然ではない。

 

確かに、重りをつけたら自殺と見せかけるのは困難である。しかし、判決がいうように「死体の腐敗状況を見た上で、しかるべき時間をおいた後に届け出る」ということを旨くやるためには、重りをつけて発見しずらい場所に沈めておいて、時間をおいて死体を浮上させ重りを外すというやり方も考えられる。しかし、前に引用したように、武の証言によれば、八木は死体発見後それをすぐに届けられるように茶色のワゴン車で死体の捜索をしたというのだから、「しかるべき時間をおいた後に届け出る」などという発想をしていなかったということになるだろう。いずれにしても、判決は「内臓が腐ればトリカブトは出ない」という発想の不可思議さ、そして、そう考えながらモップの柄で死体をつついて流したという武証言の矛盾を全然説明していない。

武は、偽装自殺計画からトリカブト殺人計画への変更の理由をなんとか説明しようとして、「内臓が腐ればトリカブトは検出されない」という架空の理論を創作した。しかし、実際に八木が旅行から帰ってすぐに佐藤の死体の捜索をしていることとの矛盾を説明する理屈を考え付くことはできなかったのである。裁判官たちも武の代わりにそれを考えてあげることができなかった。

 


[1] 佐藤の死体を捜索する際にアナリエを同行させた理由についても、「死体を発見したときに、アンナがいたほうが都合がいい」と八木は言っており、それは警察に身元確認をさせるためだと思った、と武は証言している。(武第7回証言調書)。

[2] 法廷証言では、八木は「いつもの倍」と言い、それが何かは言っていなかったと言う(考子第33回証言調書)。

[3] 3人の供述がそれぞれ影響を与え合いながら進化していった様子は第7章で論じるテーマである。

[4] 八木は、平成7年5月下旬ころにレオで武、考子、アナリエに「佐藤さんは近々に自殺すると言っている。どうも本気らしい」と発言している(八木最終陳述書)。

[5] 武は、2通の遺書をレオ店内の自分のロッカーにしまっておき、前日レオを閉店するときに「投函用」のものだけ、自分の車のコンソールボックスに置いておいたという(第6回証言調書)。

[6] すでに述べたように、この証言は平成14年証言で撤回される。切手は張ってなかったが、住所は書いてあったかもしれない、と(第87回証言調書)。

[7] 「投函用」と「置手紙用」の2通を用意するというのも不自然である。

[8] こんな感じである――「土手から河原に下りていって,最初の分岐点を左に行って,少し行って,次の分岐点をまた左に行って,そのまましばらく道なりに走って,大きく右に回って,そこからは何度か右に行きながら,今度は下流の方向に向かって道なりにしばらく進みました。これは結構長い距離を走っていた覚えがあります。そして,左に曲がって広いスペースのところに出て,そこで佐藤さんの死体を川に流したという覚えがあります。」。

[9] 武によると、「車に乗って、右に曲がったりとか、左に曲がったりとか、カーブのところの、車に乗ったままのカーブの感覚とか、あとは真っ直ぐの距離を走った感覚とか、そういうもので、私はそういう感覚の、体の感覚の記憶というのがあって、それで説明していました」ということである(第7回証言調書)

[10] これらの検察官調書には、考子がそばで聞いていたとか、考子向けの芝居だったという話は登場しない。この話が登場するのはその1ヶ月半後の調書である(H12/12/18検察官調書)。

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