第5章 武証言のおかしさ

4 変遷

 

犯罪を計画しそれを実行した人が自らの体験を自発的にありのままに語るのであれば、その話を繰り返すうちに話す内容が変わるということはないだろう。どうでもいいような微細な部分について多少の変更があることは避けられないとしても、実際に体験した人であれば印象に残るような重要なディテールに不可解な変遷があれば、その人の自白は怪しいということになる。供述に不合理な変遷があるということも、虚偽自白の兆候の1つなのである(渡部1982p307)。

第3章で詳細に指摘したように、武の自白はその根幹部分で不可解な変遷を遂げている。「偽装自殺」供述から「トリカブト殺人」供述への転換、そして、「記憶にふたをしていた」という平成13年証言から「それは嘘だった」という平成14年証言への転換がそうである。その他にも、いままで折に触れて、武の自白の重要な細部に不合理な変遷が見られることを述べてきた――ハサミ、洗面器、畳とカーペット、遺書の住所、あんパンなど、いずれも「トリカブト殺人」を体験した武であれば、記憶に残り、話しが変わるはずのない部分について供述に変遷が見られる。これらだけでも武の自白は信用できないと考えるのが常識であると思う。

ここではさらに重要な供述の変遷の幾つかを見てみることにする。

 

着せ替えはいつ行なわれたか

 

殺害後の佐藤を裸にして、既に全身硬直した体に革ジャンパーやズボン、セーターなどを着せる場面は、武が語る渡辺荘事件のストーリーのなかでも、最も強烈な印象をわれわれに与える部分である。ところが、この場面がいつのことなのかについて、武の供述は変遷しているのである

法廷証言では、渡辺荘で佐藤にトリカブト入りあんパンを食べさせ、動かなくなった佐藤をそのまま渡辺荘に放置して、自宅で化粧をして着替えをして、ディナーショーに行き、レオに戻り、鹿野が帰った深夜12時過ぎに、武は八木、アナリエとともに渡辺荘に行き、そこで佐藤に革ジャンを着せたことになっている。

ところが、「トリカブト殺人」を自白しはじめた当初、武は佐藤に衣類を着せたのがディナーショーに行く前のことか、それともディナーショーから帰った後のことか、わからないと供述していたのだ(H12/11/2警察官調書)。佐藤の死体に服を着せたのが事実だとしたら、それがディナーショーの前か後か分からないなどということはおそよありえないだろう。ディナーショーに行く前はまだ夕刻であり、日没前である。そして、死体硬直もまだ始まっていないから、法廷で証言したようなやり方で佐藤に衣類を着せる必要はなかった。当初の予定どおりワイシャツを着せることもできただろうし、革ジャンパーの袖口を切り取る必要もなかったはずだ。

そして、さらにおかしいのは、ディナーショーの前だとすると、鹿野幸次や川村富士美が登場しないことである。武の法廷証言では、客である川村や鹿野をレオに残したまま、忙しく佐藤を裸にしたり、部屋の掃除をしたというのである。これがディナーショーの前ということになると、あのレオと渡辺荘の間を何度も往復したシーンは全て消えてなくなるのである。川村にカラオケを歌わせる必要もなくなる。

着せ替えから死体を利根川に流すまでの行動は一連のものであるから、これをディナーショーの前にやったとなると、レオに戻った時点では佐藤の死体はもはや渡辺荘には存在しなくなる。殺人犯の心理を考えてみよう。殺害現場に死体を残したままの殺人犯と、死体を遺棄し終えた殺人犯は同じ心理ではありえないだろう。死体を渡辺荘に残したままレオで鹿野や川村の相手をしていたときの心理状態を、武が――実際にそれを体験していたならば――忘れるはずはない。武は、死体を利根川に流してレオに戻り、川村のテーブルについたとき、体が震え、タバコを持つ手の震えが止まらず、水割りを何杯も立て続けに飲み干したと証言した(第7回証言調書)。この体験をしたのかしていないのか、どちらか分からないなどということがありえるだろうか。

 

革ジャンを切ったのは誰か

 

平成12年10月下旬ころの取調べで、武は、アナリエが「黒い服」をはさみで切っている映像を語った(H12/10/27上申、H12/11/2警察官調書)。

その後、11月下旬にいたり、襟を切ったのは八木だと彼女は供述するようになった(H12/11/28警察官調書)。もっとも、袖口を切ったのが誰かは、記憶がないと述べている。

そして、12月に入り、武は佐久間検事に対して、袖口を切ったのは、八木か自分のどちらかだと供述を変更した(H12/12/12検察官調書)。

そしてさらに、法廷では、襟も袖口も、切ったのは八木だと断定するに至ったのである(第6回証言調書)。

変遷はまだ止まらない。武は、検察官の尋問では、八木が襟と袖口を切ったと答えたのだが、弁護人の質問に対しては、襟を切ったのは八木だが、袖口を切ったのは誰か分からないと答えた。そして、検事の尋問では、襟を切ったのが八木なので袖口を切ったのもそうではないかという意味で袖口も八木が切ったと答えたのだ、と強弁した。そして、結局袖口については、誰が切ったかはずっと記憶がなく、最初のころは自分が切ったかもしれないということすら否定できなかったと証言するにいたった(第22回証言調書)。

武は、袖口を切ったのが自分ではないということに自信を持ったのは、革ジャンを押さえる自分の姿をはっきり思い出したからだという(同前)。彼女が証言する革ジャンの切り方は腕を袖の途中まで通したまま袖口を切るというものである(第6回証言調書)。ところが、平成12年12月の取調べでは、自分か八木のどちらかが革ジャンを広げて持ち(革ジャンはまだ佐藤に着せられていない)、どちらかがハサミで袖口を切り取ったというものである(H12/12/12検察官調書)。袖口を切取る際の革ジャンの状態についても供述が変遷しているのである。

さいたま地裁判決はこの問題について次のようにコメントしている。

被告人らは時間の制約がある中で行動中,革ジャンパーの袖口を切る段階では,想定外のアクシデントが続き,狼狽した末,その場の思いつきで行動していたことが窺われるから,武の記憶に混乱が生じたとしても無理はない状況にあったといえる。

確かに武の語る出来事は「想定外のアクシデント」ではあったろう。しかし、彼女は「狼狽した」とは一言も述べていないし、狼狽を窺わせる言動もしていない。むしろ逆である。彼女の証言によれば、彼女はこのとき「ジョッパーズパンツ」と長靴に履き替え、軍手を用意した。そして、着せ替えに入ってからも、アナリエが靴下を履かせるのを手伝い、八木に向かって「革ジャンをじかに着せたらおかしいよ」とか「袖口も切ったほうがいいんじゃないか」とアドバイスを与えたりしている(第6回証言調書)。狼狽どころか「沈着冷静」という表現の方がふさわしい。そしてなによりも、彼女はこの前後の状況を実に克明に描写しているのである。「記憶に混乱が生じた」様子など微塵も窺えない。そうであるにもかかわらず、最も肝心の部分とも言うべき、誰が襟や袖口を切ったかについて供述が二転三転するというのは、如何にも不自然である。

 

どこで誰が「遺書」を投函したか

 

武の証言によれば、この渡辺荘での佐藤殺害の前と後に、佐藤の遺書を投函したことになっている。平成7年6月3日昼間にあさひ屋から、翌4日未明に本庄郵便局から、それぞれ郵送したと言うのだ。そして1通目の遺書は武が投函し、2通目の遺書は八木が投函したと証言した(第6回証言調書)。

取調べの時の供述はこれとはずいぶん異なる。平成12年9月末ころから10月末までは、どちらの遺書という区別はなく、遺書を投函したのは誰か分からないと供述している(H12/9/26警察官調書、武ノート6冊目H12/10/27)。その後昼間の遺書については、11月末の時点では、アナリエと自分のどちらが投函したか分からないと述べ(H12/11/28警察官調書)、4日未明の遺書は郵便局前のポストに出したのか「サカウエマイショップ」という店の前のポストに出したのか分からず、また誰が投函したのか分からないと述べている(武ノート9冊目H12/11/25 図5‐3)。

3日昼間に自分が出した遺書について、アナリエが出したのか自分が出したのか分からないというのは異常であり、4日未明に出した遺書もどちらのポストに出したのか、誰が出したのか分からないなどということもありえない。

【図5‐3 「遺書」の投函場所 (武ノート9冊目H12/11/25)】

図5-3 「遺書」の投函場所(武ノート9冊目H121125

 

さいたま地裁の裁判官たちはこう説明する。

遺書をポストに投函するのが武自身であるか,アナリエであるかという点は,事柄としてそれほど重要とは思われず,武がアナリエに渡して遺書を投函するよう指示してもかまわなかったのであるから***武にとってもだれが実際に投函したかとの点は特段印象に残る出来事とならなかったために,この点に関する記憶に混乱を来したものと考えられるのであって,供述に変遷が生じたからといって,武証言全体の信用性が否定されるものではない。

 

こういう裁判官にかかったら被告人は絶望的だ。武の証言を前提にすれば「遺書」は犯行計画全体のなかで佐藤を自殺と見せかけるための重要な道具の1つであることは言うまでもなかろう。「共犯者」のうち誰がそれを出すかは、全員をひっくるめて「共謀共同正犯」にしてしまう裁判官にとっては「さほど重要とは思われ[ない]」だろうが、それを実行する当の本人にとっては、非常に重要な出来事であり、それは鮮明に脳裏に刻印される出来事に違いない。そして、もしもこの出来事が武にとって「特段印象に残る出来事とならなかった」のであれば、なぜ彼女は法廷で、「あさひ屋」前のポストに投函したのは自分で、本庄郵便局前のポストに投函したのは八木だと明言できたのか。彼女は、不確かな記憶を明確な記憶として証言する、実に危険な証人だということになるはずではないか。
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