第5章 武証言のおかしさ

3 他の証言との矛盾

 

信頼に値する他の証人の証言と矛盾する点を含んでいるということも虚偽自白の兆候の1つである。

「ショーがはじまる前に八木に会った」(茂木佐喜子の証言)

武は、ディナーショーに皆で揃って行くために午後6時にレオの駐車場で待ち合わせることになっていた;支度に1時間かかるので、午後5時ころに永山荘に戻り、支度をして八木の自宅によって午後6時ころにレオの駐車場に集合して、サンパレスに向かった;ディナーショーは既に始まっていた、と証言した(第6回証言調書)。

しかし、ディナーショーの主催者であり、八木の知り合いでもある茂木佐喜子はこれとは異なる証言をした。茂木によると、その日のディナーショーの開場は午後5時30分であり、その時刻に食事が出てショーが始まるのは午後6時ころであったが、八木たち一行はショーが始まる前、午後5時50分ころには会場にいて自分は八木に会釈したというのである(茂木佐喜子証言調書)。ちなみに、一緒にディナーショーに行った鹿野幸次も、会場で食事をしていて、ショーが始まったので後ろを振り返るようにしてステージを見た――ショーが始まる前に会場に居たことになる――と証言している(鹿野幸次証言調書)。

そもそも6時から上里町[1]でショーが始まるというのに、6時に本庄市内で待ち合わせるというのは不自然である[2]。それでは、武はなぜこのような不自然な証言をしたのだろうか。それは、午後5時待ち合わせということになると、「トリカブト殺人」が成り立たなくなる可能性が高いからである。午後5時までに支度をしてレオの駐車場に行くためには、遅くとも午後4時には渡辺荘を出ていなければならない。午後3時に渡辺荘について直ちに佐藤にトリカブト入りあんパンを食べさせたとしても、1時間しか時間がない。その時間でトリカブト中毒による死を確実なものとするのには無理がある。前に指摘したように、2時間で死に至るという筋書きにも無理があるのである。だから、武は「6時集合」という不自然な証言をせざるを得なかった。そのために、会場に着いたときにはショーは始まっていたということも言わざるを得なかったのである。

さいたま地裁の裁判官たちが武まゆみのために考えた理屈を聞いてみよう。

この日は佐藤殺害の直後で気が動転しており,ショーの内容も覚えていないし,ショーの途中で帰ったのかどうかもはっきりしないとしており,すでにショーが始まっていたとの証言も,甚だ漠然としたものであって,実際にショーがどの段階にあったなどの具体的な状況は一向に明確でない。***茂木証言によれば,当日の飲食物は客の入場前に既にテーブルに用意されているので,午後5時半ころ会場が開いた後,ある程度そのテーブルに人数がそろえば客は勝手に飲食を始める状況にあったというのであり,午後6時10分前ころ会場に到着した武が,食事が始まっているのを見て,既にショーが始まっていると認識することも考えられるところであり,この点についての武証言が茂木証言と矛盾するとまではいえない。

***武が本庄を出発した時間について午後6時を過ぎていたと証言している点も,武の記憶違いと認めざるを得ないが,これにより武証言全体の信用性が否定されるものではないことは明らかである。

 

殺人を犯した直後で気が動転していたから会場で食事をしているかショーが行なわれているのか分からなかったという説明は説得的だろうか。ショーが始まる前のディナーショーの会場は照明も明るく、客同士の会話や食器の音で会場はざわついているものである。照明が落ちスポットライトが灯るのにも武は気がつかなかったなどということがあり得るだろうか。実際のところ、本庄から上里町まで4人を乗せて自動車を運転したのは武だったのだ!そして、集合時間は「佐藤殺害」のずっと前に決まっていたはずだ。この時刻を武が「記憶違い」する理由が一体どこにあるのだろうか。

「長い間待たされたことはない」(鹿野幸次の証言)

 

鹿野幸次はレオの常連客の1人であった。彼は武まゆみに惚れており、彼女に会うために週に1~2回赤ちょうちんに通い、赤ちょうちんが閉店するとその足でレオに行き、行けば閉店まで店にいるのが常だった。彼は武に誘われてサンパレスのディナーショーのチケット2枚分の代金を払った。当日は、てっきり武と2人きりでディナーショーに行けると思っていたのに、集合場所に行ってみると、2人きりどころか、もう1人の武目当ての常連客、川村富士美まで来ていた。鹿野はむっとした(鹿野幸次証言調書)。

武まゆみの証言によると、ディナーショーが終わり、一行はそのままレオに行ったが、その後、武、アナリエそして八木は、客である鹿野や川村を店に放ったまま、何度もレオと渡辺荘の間を往復して、佐藤の体を拭いたり、部屋の掃除をしたりしたという。武は、渡辺荘から戻って鹿野のテーブルについた彼女に向かって鹿野が「人がせっかくディナーショーに連れていってやったのに、こんなに長いあいだ放っておいて、何なんだ」と怒鳴ったと証言した。そして、深夜12時には、鹿野1人を先に帰し、川村と考子だけを店に残して、八木、武、アナリエの3人は渡辺荘で佐藤の死体に革ジャンなどを着せて、利根川岸までそれを運んで川に流し、何食わぬ顔でレオに戻ったというのだ(第6回証言調書)。

この武の話が本当だとすれば、鹿野はこのエピソードを覚えているはずである。鹿野は、警察官や検察官から繰り返し取調べを受けた。合計30回以上取調べられたという(鹿野幸次証言調書)。また、マスコミからも取材を受け、ディナーショー当日のことを話したとも証言した。しかし、彼は、この武の証言に沿うエピソードを一度も話したことがない。われわれは公判がはじまる1ヶ月ほど前に鹿野幸次を訪ね、彼から事情を尋ねた。彼は、武の話とはまったく相反する話をした。当日はいつもと同じように午前4時の閉店ころまでレオにいた;途中で八木や武が席をはずしたことがあるが、その時間はせいぜい15分から20分程度だった;1時間も姿を見かけなかったことはないし、武を叱ったことなどないというのである(鹿野幸次H13/8/27弁護人調書)。

われわれの申出で鹿野は法廷で証言することになった。彼は、概ねわれわれに語ったのと同じ話をしたが、1点だけそれまでと違う話をした。鹿野は、法廷では、ディナーショーの日、武に「今日は店を早終いするから」と言われて、自分だけ深夜12時過ぎに帰ったことを「思い出した」と言ったのだ。鹿野を尋問することが決まった後、佐久間検事は鹿野を本庄警察署に呼び出して取調べた。その日に作成された調書の冒頭にこうある――「今日、検事さん達と話しているうちに、今まで私が平成12年の検察庁での取調べの際にも、また、平成13年の私の家における弁護士さんの事情聴取の際にもお話していなかったことを思い出しました」(鹿野幸次H14/4/10検察官調書)。鹿野は、検事から「鹿野さん、裁判所で違うことを言うと偽証罪になるから、よく考えて欲しい」と念を押され、話しているうちに突然「追い帰されたことはないか」と聞かれたので「ありました」と答えたのだという(鹿野幸次証言調書)。鹿野の説明に納得できる人はいないだろう。さいたま地裁判決ですら、この部分の鹿野の話しを取り上げはしなかった。

しかし、鹿野は、その日レオで長時間放って置かれたことはないし、武を叱ったことはないという証言を維持している。「もしそういうことがあったとすれば、私は黙って店を出てきちゃったと思います」と証言した。これは武の証言と明確に対立している。さいたま地裁判決の説明を見よう。

本件当日は鹿野にとっては日常の一場面にすぎなかった上,飲酒もしていたと認められることにも照らすと,約7年経過した証言時においては,もともとそれほど正確でなかった記憶がさらに一層減退したということも十分に考えられるところであり,現に,ディナーショーの開始時刻が三,四十分遅れていたなどと関係証拠に明らかに反する供述をしている状況にもあるのであって,武との会話を忘れている可能性も否定できないものと認められる。***

弁護人は,鹿野が長時間「レオ」に放置された事実はなかったとも主張するが,その鹿野自身も,30分程度待たされたことはあると供述しているのであり,鹿野が時計を見ていたわけではないことに照らすと,この「30分程度」には相当の幅があるものと認められるところ,他方で,被告人と武が鹿野を待たせていた時間というのは,死体のスウェットを脱がせ,その体を拭いたり,渡辺荘の掃除をするなどしていた時間であって,それほど長時間であったとも考えられないから,30分程度待たされたという鹿野証言と別段矛盾するものではないといえる。

 

鹿野は大好きな武まゆみと2人でディナーショーに行けると期待しながらその期待が裏切られたのであり、この日は彼にとって特別な日だった。「日常の一場面」などでないことだけは確かである。そして、仮に長時間放って置かれ、そのことで武を怒鳴ったのであれば、それもまた非日常的なエピソードであり、彼がそれを忘れるわけはない。判決は鹿野が「30分程度待たされたことはある」と証言したと言うのだが、鹿野はそんな証言はしていない。彼は、先に引用した「ほっておかれたら黙って店を出ちゃうだろう」という話しに続けて、「まあ、我慢して30分でしょうね」と言っているのである(鹿野幸次証言調書)。実際にこの日彼が30分間我慢して待っていたなどと言っているのではないことは確かであろう。裁判官たちは、武の証言を救うのに都合の良いように鹿野の証言を歪曲したのである。

「鹿野が帰ったあとずっと八木と一緒だった」(川村富士美の証言)

 

その日川村富士美もディナーショーに行っている。彼もレオの常連客であり、武のことが好きだった。だから、彼も鹿野がディナーショーに来ていることが不満であった。その川村も、鹿野はその日閉店間際までレオにいて、彼が帰ってすぐにみんなで別荘に行ったと証言しているのだ。彼の法廷での証言は、レオで飲んでいると、八木と武が自分の席にやってきて、「別荘いくべや」「鹿野は連れて行かないから、鹿野にはだまってて」と言われた;鹿野が帰るのを待って午前4時ころに別荘に出発した;その間は八木たちと飲んでいたというのである(第57回証言調書)。鹿野が帰ってから別荘に出発するまでの時間について、彼は、法廷では「鹿野が帰ってすぐに閉店という感じ」「少し飲んでから」「1時間以内だとは思う」というあいまいな表現をしているが(同前)、捜査段階では、鹿野が帰るのを皆で待っていた;鹿野はなかなか帰ろうとしなかった;午前4時ころに帰ったので、店を閉めて別荘に行くことになったと明確に供述している(川村富士美H12/6/29警察官調書;H12/6/30検察官調書)。

この川村証言によって武のストーリーは完全に崩壊してしまう。彼女は、深夜12時ころに鹿野を帰して間もなく、自分と八木、アナリエの3人で渡辺荘に行き、佐藤の死体に革ジャンなどを着せ、それをワゴン車に乗せて、3人で死体を利根川に流したというのである。レオに戻ると川村はカラオケを歌っていた;川村の席につくと、八木が「別荘に行くぞ」と言い、いつもよりも早めの午前3時ころに店を閉めて別荘に向かった、と言う(第7回証言調書)。武は、この間どのくらいの時間3人がレオを留守にしていたのか明言していないが、硬直した佐藤の死体に失敗を重ねながら衣類を着せたり、革ジャンの襟や袖口をハサミで切ったり、死体をワゴン車に乗せて利根川岸まで往復したり、死体を川岸まで歩いて運び、流れるのを見守ったなどと言うのであるから、優に2時間以上の時間は経過しているであろう。彼女のこの証言が本当だとすれば、川村はこの2時間以上の時間をレオに残った森田考子と2人きりで過ごさなければならないことになる。そして、そのことを彼は決して忘れないだろう。これこそ正に非日常的な体験である。

川村は、法廷でも、検事や刑事の取調室でも、そのようなことを一切述べていない。彼は、閉店間際まで鹿野が居て、彼が帰るのを見計らって皆で別荘に向かった;鹿野が帰ってから別荘に行くまでは皆と飲んでいたと証言しているのである。その間は皆と一緒であり誰かがいなくなったということはないと言うのである(第59回証言調書)。

裁判官の言い分を聞こう。さいたま地裁判決は鹿野証言を退けたのと同じ手法を使って川村証言を否定する。

鹿野と同様,川村も「レオ」の常連客であり,本件当日は同人にとって日常の一場面にすぎないこと,飲酒していたこと,証言までに約7年が経過していることなどを考慮すると,本件当日の「レオ」での状況についての川村の記憶の正確性については疑問があり,現に,森田[考子]と武が一致して被告人らが利根川から戻った際,森田と川村がカラオケを歌っていた旨証言しているのに対し,川村は,森田とカラオケを歌っていたかと言われればそういう風な感じもする旨述べるに止まり,否定も肯定もできない状況にある。川村は,時計を見ていたわけでなく,感覚的に,鹿野が帰ってから別荘に行くまでの時間は1時間くらいであったと証言しているにすぎないから,この「1時間」には相当の幅があるものというべきである。

 

鹿野と同様、この日は川村にとっても特別の日であった。好きな武まゆみとディナーショーに行き、その後八木の別荘にある露天風呂で武との混浴を体験しているのだ。「共犯者」同士である武と考子が「一致して」カラオケを歌ったと言っているからといって、その点を明確に供述しない第三者――「被害者」でもある!――川村の証言を批判する裁判官の態度は倒錯しているとしか言いようがない。ちなみに、森田考子は、他の3人が戻ってくるまでの「1時間以上」ずっと川村と2人でカラオケを歌い続けていたと言う(第29回証言調書)[3]。大好きな武がどこかに消えてしまい、好きでもない考子と2人きりで1時間以上も連続してカラオケをやったとすれば、そのことを忘れるわけはなかろう。川村は捜査段階では考子とカラオケを歌ったなどとは一言もいっていない。法廷で裁判長はこのことを川村にしつこく尋ねた。それで、川村は「そいうふうに言われると、そういう感じもしますが」とか「2人で2、3曲歌ったような気がします」「鹿野がいたかいないか、よく覚えていませんが」と言い始めたのである(第90回証言調書)。そして、ここでも裁判官は川村の証言を武のために歪曲している。川村は、鹿野が帰ってから別荘に行くまでの時間が「1時間くらい」あったなどとは一言も証言していないのである。先に引用したように、彼は「鹿野が帰ってすぐに閉店という感じ」「少し飲んでから」「1時間以内だとは思う」と言っているのである。

「襟と袖口を切断した革ジャンを着た佐藤を見かけた」(堀野敏和・八木茂樹の証言)

 

八木茂の長男茂樹は当時人材派遣業を営んでいた。彼は父親の紹介で佐藤修一をヤマト興産という会社に派遣していた。ヤマト興産は栗本鐵工の下請け会社で、鉄骨の橋梁を作る会社である。佐藤はその会社で橋梁の仮組作業をしていた。工場内の敷地で巨大な鉄の塊を組み上げ、それを磨く作業である。「サンドブラスト」と言って、細かい鉄の粒を高速で吹き付けて鉄をきれいに磨き上げる作業である。鉄の粒が体に当たる危険があり、当たると非常に痛い。また、冬場はとても寒い作業でもある。しかし、工場の敷地内では必ず会社支給のつなぎの作業服を着用する決まりなので、作業員はつなぎの下に厚手の衣類を着込んで作業する。佐藤修一は、栗本鐵工のネームが入ったつなぎの下に革ジャンパーを着けて作業をしていた。そして、その革ジャンの襟と袖口は、つなぎの下に着るのに便利なように、切り取られていたのだ。

ヤマト興産で佐藤の同僚であった堀野敏和は、こう証言した――佐藤は作業中につなぎの下に革ジャンを着ていた;その革ジャンのそでの手首のところがぼろぼろだった;袖口がぼろぼろのまま作業をしていると危険なので、私や他の同僚が佐藤に何度か注意していた;その後、佐藤は自分で革ジャンの袖口を切ってしまったようで、私に「切っちゃったよ」と言って、両手を広げて袖口が切れているのを見せてくれた;その時期は、平成6年11月か12月ころだと思う。彼は、死体発見当時に佐藤が着ていた革ジャンパーの写真を見て、佐藤がつなぎの下に着ていた革ジャンだと思うと証言した(堀野敏和証言調書)。

そして、佐藤を栗本鐵工に派遣し、自らも佐藤と一緒に現場で作業をしていた八木茂樹は、こう証言した――平成6年暮れころから平成7年初めころにかけて、佐藤が作業中に革ジャンを着ているのを見たことがある;その革ジャンの特徴は、襟がついていないという点だった;平成6年暮れころから平成7年春ころにかけて、佐藤が通勤途中に自転車に乗っているときに革ジャンを着ていたのを見たこともある;そのときも襟はついていなかった;袖口のあたりが短くなっており、つんつるてんに見えた。茂樹も佐藤の死体の革ジャンを見て、自分が見た佐藤の革ジャンであると証言した(八木茂樹証言調書)。

この2つの証言が決定的な意味を持つことに多言は要しないだろう。佐藤の革ジャンの襟や袖口は、彼の死後八木や武の手によって切り取られたのではなく、その半年も前に佐藤自身がつなぎの下に着るために切り取ったのである。さいたま地裁判決はどのような理屈でこの重大な証言を切りぬけたのか。

判決はまず、武やアナリエは赤ちょうちんやレオで佐藤の革ジャンを見ているはずであるから、「仮に犯行よりも以前に佐藤の革ジャンパーから襟や袖口がなくなっていたのであれば,当然そのことにきづいたはずであり,そうであれば,逮捕後,捜査官から佐藤の革ジャンパーの襟と袖口がない理由を追及された場合にも,以前佐藤が自分で切ったと説明すれば足りるはずである」と言う。確かに、佐藤は赤ちょうちんやレオに足繁く通っていた。しかし、佐藤が革ジャンを着て店で飲んでいたなどとは誰も証言していない。平成5年5月ころに撮影されたと思われる写真には、革ジャンを着た佐藤とアナリエが並んで写っている(写真5‐6)。しかし、その革ジャンには襟とゴム編みの袖口がちゃんと写っている。アナリエと佐藤は渡辺荘にいたが、部屋は別々であり、アナリエは佐藤を嫌っていて、佐藤の部屋には立ち入らないようにしていたというのである。佐藤が仕事のために革ジャンの襟や袖口を切り取ったことを彼女が知らなかったとしても全然不思議ではない。

次に判決は、この平成5年5月ころに撮影した革ジャンは着古した状態には見えないから、「佐藤が,その2シーズン後に突然襟を切り落としたり,ぼろぼろになった袖口を切り落としたりしたというのは不可解である」と言う。どこが不可解なのだろうか。佐藤がこのジャンパーを着けて、そのうえにつなぎの作業服を着て、毎日サンドブラスト作業をしたとすれば、革ジャンは汗を大量に吸い、油や手垢で汚れ、あっと言う間にゴム編みの袖口はぼろぼろになるだろう。襟の部分はつなぎの下に着るのには邪魔になる。だから着易いようにその部分を切り取ったのである。

 

【写真5‐6 平成5年5月ころの佐藤の革ジャンパー】
写真5‐6 平成5年5月ころの佐藤の革ジャンパー

 

そして、判決は、この革ジャンは「平均的な色とデザイン」であるから、堀野と茂樹が別のものと混同している可能性を否定できないと言っている。平成5年5月当時の革ジャンは襟も袖口も揃っており、確かに良くある色とデザインのものである。しかし、利根川で死体となって発見された当時佐藤が着ていた革ジャンは、決して「平均的な」ものではなかった。襟と袖口が切り落とされていて、袖口のゴム編みの部分がぎざぎざの状態で一部残っている(写真5‐7)。その特異な形は誰の目にも明らかだろう。堀野も茂樹も、この特色のある革ジャンの写真を示されて、自分たちが目撃した佐藤修一の革ジャンパーに間違いないと証言したのである。

 

【写真5‐7 死体発見当時の佐藤の革ジャンパー】
15 01:21:33

 

判決が言うように堀野と茂樹が見た革ジャンが佐藤の死体が着ていたものとは別の革ジャンだということがありえるだろうか。もしそうだとすれば、佐藤は少なくとも革ジャンを2着持っていたことになる。しかし、そのようなことを証言する人はどこにもいない。勿論、行田警察が佐藤の死体とともに発見した革ジャン以外に佐藤の革ジャンなるものは発見されていない。佐藤の衣類を東秩父の山林に捨てたという武も、始末した衣類の中に革ジャンがあったなどとは証言していない。そして、2着の革ジャンそれぞれについて、1着は佐藤自身の手によって平成6年暮れころに、もう1着は平成7年6月に八木や武によって、それぞれ相談することもなく、偶然にも同じ部位――襟と袖口――を切り取られたということになる。判決が言うように確かに「可能性を否定でき[ない]」。しかし、この万に1つあるかどうか分からない偶然の一致という可能性によって人ひとりに死刑を言渡しても良いものだろうか。

 


[1] 本庄から自動車で15~20分の距離に位置する。

[2] 八木茂は待ち合わせ時刻は午後5時であり、5時20分には会場に到着したと述べている(八木最終陳述書)。

[3] 法廷では「1時間以上」と言い、捜査段階では、「20曲以上100分以上」歌い続けたという(森田考子H12/11/4検察官調書)。武がカラオケの話しをはじめてしたのは平成12年12月半ばになってからである(H12/12/12検察官調書)。

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