第5章 武証言のおかしさ

 前章までは、武証言の生成過程――とりわけ捜査から公判にいたる捜査官と彼女の交渉の過程――に焦点を当てて、彼女の供述を分析してきた。本章では、彼女の供述の中身に焦点を当てる。すなわち、彼女の語る内容は、佐藤修一をトリカブト入りあんパンで毒殺した真犯人の供述として納得できるものなのかということである。

 

1 客観的な証拠とのズレ

 

ある人の供述の重要な部分が客観的に間違いのない証拠によって裏付けられれば、その供述の信用性は高いということができる。特に、真犯人しか知ることができず捜査官にはまだ知られていない事項を本人が供述し、その後の捜査でそれを裏付ける証拠が発見されたときは、その人の自白は信用できるということができる。例えば、殺人を自白した人が、死体を埋めた場所を供述し、警察がその場所を掘り起こしたら確かに死体があったという場合には、その人の自白は信用できる。このような供述を「秘密の暴露」と呼んでいる(渡部1982pp300-301;最1小判昭57・1・28刑集36-1-67「鹿児島夫婦殺し事件」)。

武の供述には「秘密の暴露」と呼べるものが何一つない。彼女が語る一連の物語は詳細を極めている。けれども、そのうちの重要な部分は、実は武がはじめに語ったものではなく、警察官や検察官が最初に思い付き、その後に彼女が語りはじめたものばかりである。そして、いずれにしても、武の物語には客観的な証拠による裏付けというものが皆無に等しい。第2章で指摘したように、佐藤修一に致死量以上のトリカブト毒を与えたという出来事についてすら、裏づけがなく、むしろ彼女のいうトリカブトの量では佐藤は死亡しなかった可能性の方が遥かに高い。

武の供述と客観的な証拠との間のズレを幾つか見ていくことにしよう。

佐藤の症状発生から死亡まで

 

武は、佐藤にトリカブト入りあんパンを食べさせたときの状況について、こう証言する――午後3時ころに渡辺荘に行き、佐藤と一言二言会話を交わした後、佐藤にトリカブト入りあんパンを食べさせた;佐藤があんパンを食べた後、「ほとんど間もなくという感じで」八木が来た;みんなで缶ビールを飲むことになり、1本飲むか飲まないうちに佐藤が「しびれてる。感覚がない」と言い出した;私は「あらららら、思ったよりトリカブト、早く効いちゃったよ」と思った;佐藤は吐いた後、布団の上で手足を硬直させ、身体をよじりのたうち回った;その後私とアナリエが佐藤に布団を被せて馬乗りになって押さえつけた;しばらくして佐藤の肩や腕の硬さが柔らかくなり、八木が「もう、いいだろう」と言ったので、二人は押さえるのを止めた;八木が佐藤に「佐藤さん、おーい」と声を掛けたが反応がなく、八木は「もう大丈夫だ」と言った;私と八木が渡辺荘を出ようとすると、アナリエが「動いたらどうするの」と言った;八木は「死んでるから大丈夫だよ。死んでる人間は怖くねえ」と言い、私は、「そんなに心配だったら、ひもで縛っておけばいいじゃないの」と言った;私と八木はそれぞれ自動車に乗って帰った;5時までには永山荘に戻った(第6回証言調書)。

この武証言によれば、佐藤がトリカブト入りあんパンを食べてから症状が現れるまでの時間は、「ほとんど間もなく」プラス「缶ビールを1本飲むか飲まないくらいの時間」ということになる[1]。すなわち、佐藤がトリカブト入りあんパンを食べて症状が出るまでの時間はせいぜい数分ないし数十分ということである。そして、武は午後3時ころに渡辺荘に来て、午後5時までには永山荘に帰ったというのであるから、佐藤が死ぬまでの時間はどんなに長くても2時間足らずということになる[2]

この発症・死亡に至る時間の経過は、文献に現れたトリカブト中毒の事例と比較して、あまりにも急激なものである。第2章で説明したように、アコニチンの2倍の毒性を持つジェサコニチン4mgを成人が摂取した2つのケースでは、中毒症状が現れるまで1時間を要し、死亡までに4時間経過している。武が佐藤に食べさせたというのはジェサコニチンより毒性の弱いアコニチンであり、その量も、致死量ということすら問題のある1・2mg程度である。

このわれわれの指摘に対して、判決は、佐藤の死亡時刻をあいまいにぼやかし、死亡が明確になるのは午後9時前後に八木たちがレオに戻り、その後に渡辺荘に行って「佐藤の左頚部に手を当てて脈がないことを確認したとき」だなどと言っている。しかし、これはおかしい。武は、夜に渡辺荘に戻ったときにも、佐藤の死体は渡辺荘を出たときと同じように布団の上に横たわっていたと証言している。佐藤が動いた形跡があったなどとは証言していない(第6回証言調書)。そして、佐藤に衣類を着せようとしたときには、佐藤の死体は固まっており、腕も指先も固まり、上半身を起こすのも2人がかりであったと言っている(同前)。武の証言は、要するに、午後5時前の段階で佐藤は死亡していたというものと理解せざるをえないだろう。

さらに判決は、佐藤は長年にわたって飲酒したり、微量のトリカブトを摂取していたのだから、「毒物に対する抵抗力を低下させていた可能性がある」などと反論している。しかし、この反論も成り立たない。なぜなら、第2章で指摘したように、トリカブトを長期間摂取していると耐性ができて、中毒量が増えて、中毒は起きにくくなるからである(黄=夏1981[1956]p423)。

本庄警察が上野正彦医師に「事例」を示してその死因を照会したことを第1章で書いたが、その事例は次のようなものであった――甲(45歳男性)がヤマトリカブトの根により1~2mgのアコニチンを摂取し、10~15分後に苦しみ始め吐き気・痺れなどを訴え嘔吐したのに続き、2人の女性が甲に布団を被せて布団の上から甲を押さえ込み、甲は布団の下でもがいていたが、およそ30~60分で死亡した(H12/11/24捜査照会書)。この「事例」は、言うまでもなく、その当時の武まゆみの供述である。武は、佐藤にトリカブト入りあんパンを食べさせて10~15分で症状が現われ、30~60分で死亡したと供述していたのである。

この供述がトリカブト中毒についての症例研究とかけ離れたものであることは説明の必要がないであろう。

佐藤の胃の中は空だった

 

武は、佐藤が食べたあんパンはつぶあんで、表面に芥子粒が乗っていた;佐藤は歯が少なく、あんパンを水で流し込むようにして、あまり噛まずに飲み込むようにして全部食べたと証言した(第6回証言調書)。

第2章で指摘したように、この証言は、解剖所見と矛盾している。佐藤の胃にも十二指腸にもパンやあんこ、ケシのみ、トリカブトなどのかけらはなかった。この結果は、佐藤の死亡直前にあんパンを食べさせたという武証言と決定的に矛盾している。

渡辺荘の畳

 

平成12年12月12日武まゆみは佐久間検事の前でこう供述している。

スウェットが佐藤さんのゲロで汚れていたので、ゲロからトリカブトが出るのを防ぐために脱がせる必要がありました。

***[佐藤のスウェットを脱がせた後]私は、佐藤さんの死体が乗ったままの布団をズルズルと引きずって動かし、アナリエが、畳の上に落ちたゲロを拭きました。

この作業のとき、私が着ていた長いベストの裾がヒラヒラしてうるさかったので、裾をスパッツの裾に折り込んで作業したのを覚えています。

私は、アナリエが一通り畳を拭いた後に、佐藤さんの乗った布団をもう一度もとの位置、つまり、佐藤さんがトリカブトを食べて死んだときにあった位置に戻しました。(H12/12/12検察官調書)

 

つまり、武は、佐藤の衣類や畳が吐しゃ物で汚れているので、衣類を脱がせ、布団を佐藤を乗せたまま移動して畳の拭き掃除をしたというのである。われわれは、公判準備のために渡辺荘を訪れ、その際家主の渡辺から話を聞いたところ、当時の畳は最近までそのまま使用していたが、警察が来て全部持って行ったとのことであった。そこでわれわれは、検察官に畳の押収、鑑定に関する証拠書類を開示するように要求した。検察官は「事件の争点が明確じゃないのに、開示できない」などと難癖をつけてこれを拒否し続けたが、裁判官の仲介でなんとかわれわれは公判開始前に関係書類のコピーを入手できた。

それによると、本庄警察は、平成12年11月26日に渡辺荘に武まゆみを立ち合わせて犯行を再現するための検証を行なった際に、渡辺荘の畳全部(11枚)を差押さえ、その翌日科捜研に「アコニチン系アルカロイド及びその分解物質の付着の有無」についての鑑定を依頼した。科捜研が鑑定を終えたのは年が明けた平成13年1月10日である。そして、その鑑定結果は「アコニチン系アルカロイドならびにその分解物質は検出されなかった」というものである(H13/2/7鑑定書)。事態を推測すると、こういうことだろう。11月26日に現場で「犯行再現」をしている間に、武は渡辺荘の佐藤の部屋が畳であり、その畳の上に佐藤のゲロがあり、それを拭いたことを「思い出し」て、その話を警察官にした;警察はその裏付けを取ろうとして、畳を押収して科捜研に鑑定に出した;一方、警察官から報告を受けた佐久間が武からその話を聞いてそれを調書にした。しかし、武の話の裏付けは取れなかった。畳にはアコニチンは付着していなかったのである。

さて、武まゆみは、平成13年夏の証人尋問では、佐藤の部屋の畳の上に「カーペットが敷いてあった」と証言した(第6回証言調書)。そして、八木に言われて畳を拭いたが「[畳に]ゲロが染みているとか、そういうことはありませんでした」(第7回証言調書)とも証言した。武は、前年の12月には「[畳の上の]布団をズルズルと引きずって動かし、アナリエが、畳の上に落ちたゲロを拭きました」とはっきり供述していたのである。この供述変更の理由は、普通の常識と想像力があれば誰でもわかることだと思う。「証人テスト」のときに検事から供述と鑑定結果の矛盾を指摘されて、矛盾のない話を考え付いたに違いないのである。

ところが、裁判官たちは、この供述変更にはまったく触れずに、こう言ってこの問題を片付けた。

関係証拠によれば,佐藤が死亡した渡辺荘の部屋の畳の上にはカーペットが敷かれていたが,そのカーペットは事件後持ち出されて投棄されており,カーペットが敷かれていなかった部分はもとより,敷かれていた部分についても,武とアナリエがその後念入りに拭き掃除をしていること,さらには,事件から鑑定までに5年以上の年月が経過していることなどが認められることに照らすと,畳からトリカブトの成分が検出されなかったからといって,武証言の信用性が否定されるものではないといえる。

 

判決がいう「関係証拠」とは何か。それは他ならぬ武自身の証言とアナリエの証言(第40回証言調書)に過ぎない。当時の佐藤の部屋にカーペットが敷かれていたことを示す間違いのない証拠はどこにもないのである。そして、第2章でも指摘したように、今日の物質検査機器の精度から考えて、拭き掃除をしたぐらいで畳に染み込んだアコニチンを検出できないわけはない。判決は「5年以上経過している」などと言っているが、同じく5年以上経過している佐藤の臓器や毛髪からアコニチンが検出されたと認定した自らの判断とどう整合性をつけるのだろうか。裁判官は、八木の有罪を示唆する証拠については緩やかな態度で臨み、無罪を示唆する証拠に対しては厳しい姿勢を示している。

革ジャンパーを着せること

 

人の死体は、死後2~3時間経過すると硬直し始める。6~8時間で硬直は全身の関節に広がり、12~15時間で硬直は最高度に達する。その後は死体の腐敗現象などにともない硬直は緩くなっていく(池本1999p56)。武は、平成7年6月4日午前0時すぎころに、佐藤の死体にワイシャツを着せようとしたが、腕が硬くてワイシャツの袖を通すことができなかったので[3]ワイシャツを着せることを諦め、直接佐藤の死体に革ジャンパーを着せたと証言した。その方法について、彼女はこう証言する――佐藤の死体の上半身を起こして、まず佐藤の左腕に革ジャンパーの袖を通そうとしたが、佐藤の左手が袖口から出なかったので、腕を通したままの状態で袖口を切り取って、左腕を肩口まで通し、次いで革ジャンパーの右袖口を切り取った後、八木が佐藤の硬くなった右腕を無理やりジャンパーの袖に通した(第6回証言調書)。

しかし、この供述は法医学的な常識と矛盾する。日本医科大学法医学教室の大野曜吉教授の回答書によれば、死後硬直した死体について、伸縮性に乏しい革ジャンパーの左袖に左腕を肩口まで通した後に、硬直したままの右腕を右袖に通すためには、左肩から右指尖までの長さが革ジャンパーの左右肩口間の長さより短いか、同程度でなければならない。人間の左肩から右指尖までの長さが革ジャンパーの左右肩口間の長さより短いか同程度などというのは、子供に相撲取り用のジャンパーを着せるようなものである。

実際にも、武は、法廷では、われわれが用意した人形に革ジャンを着せることができなかった。硬直のある死体に革ジャンを着せる方法がないわけではない。一つは、死体をうつ伏せに寝かせ、その背後から革ジャンを下から上にずらすようにして両腕を革ジャンの両袖に通す方法である。もう一つは、革ジャンを逆さに持って、死体の前面の下から上にずり上げるようにして、両腕を同時に袖に通すやり方である。武が本当に佐藤の死体に革ジャンを着せるという体験をしているのであれば、このいずれかの方法を証言できたはずである。いきなり左袖に左腕を肩口まで通して、そのあとで右腕を通すというやり方は、生きている人が革ジャンを着る動作から容易に思いつくが、実際には殆ど不可能な方法なのである。なぜなら、このやり方をとるためには、右肩と右肘の硬直を解かなければならないからである。

武は、左袖に左腕を肩口まで通した後、どうやって右腕を右袖に通したというのだろうか。法廷での証言を見てみよう。

弁護人:その状態を指示して頂けますか。どういうふうにして腕を通したのか。

武:私はこう,何というんですか,ジャンパーの袖を,手を持ち上げた状態でジャンパーを通して着せたんですが,もう片袖通してあるので,右側は左側と同じようにはできませんよね,どうやっても。それで八木さんは,腕をこう無理やり曲げて入れたというのは分かるんですが,はっきり鮮明には覚えていないので。そのくらいまでの説明しかできないんですけど。

弁護人:どのように曲げたか,どうですか。

武:だから,細かい説明はできません。無理やり腕を入れてたというのは分かるんですけど,どのくらい曲げてたとか,どういうふうに曲げてたとかいうのは,ちょっと分からないんですが。

弁護人:この状態で腕を曲げるということになると,肘から曲げたんでしょうか。それとも肩から曲げたんでしょうか。それは分かりますか。

武:肘だとは思いますけど。

弁護人:肘を後ろにねじ曲げたということですか。

武:後ろにというと。

弁護人:この体勢ですと,右袖はどうしても後ろにいきますよ。

武:はい。

弁護人:前には決していかないですよ。

武:はい。

弁護人:そうすると,右腕を後ろにねじ曲げる以外には,袖に入らないように思うんですが,いかがですか。

武:そういう曲げ方ではなかったような気がするんですけど。はっきり違うとも言えないので。とにかく無理やり押し込んでたというのしか分からないんですけど。

弁護人:どこをどう曲げたか,分からないですか。

武:はい。

弁護人:私が今申し上げたように,後ろ向きにねじ曲げるということかどうかも分からないですか。

検察官:異議。証人はその質問に対して再三答えております。重複です。

裁判長:棄却します。

弁護人:どうですか。

武:分からないです。

 

要するに、武は、八木が「無理矢理腕を曲げた」と「思う」と言っているだけで、どこをどう曲げたのかも分からないのである。当然、その動作を法廷で再現することもできなかった。その前後の状況を詳細に語りながら、肝心の部分を語れないというのは不自然である。大野回答書によれば、「肩関節を伸展、内旋したのち肘関節を屈曲させたり、あるいは肘関節を強く屈曲させた状態で肩関節を外旋させる」という方法で右袖に腕を通すことは可能であるが、「[肩と肘の]どちらか一方のみの緩解、またはまったく緩解させていなのであれば、右袖を通せる姿勢をとらせることは不可能である」。肩と肘の硬直を緩解させる動作は、日常体験するような動作ではなく、おそらく葬儀屋のような人しか体験できない動作であろう。八木がその動作を行っているのを間近で目撃しているならば、その動作を決して忘れることはなく、法廷でも語ることができるはずである。

判決はこの不自然さにはまったく触れずに、大野回答書が一般論として栄養貧の死体の硬直は弱く、外力による緩解は比較的容易であると述べていることを捉えて、武はワイシャツを着せようとして佐藤の腕を動かした形跡があり、その後で八木が硬直した佐藤の腕を無理やりジャンパーの袖の中に通したというのであるから、大野回答書と矛盾はないと決めつけた。

確かに、大野回答書は一般論としてそのような指摘をしている。しかし、それと同時に、「トリカブト中毒」で死亡した場合には、筋細胞や神経のナトリウムチャンネルの活性化によって死戦期に筋収縮を伴う可能性があり、硬直が早期に発生した可能性があることも指摘している。硬直が早く始まれば、硬直が最高度に達する時間も当然早くなるだろう。死後硬直が最高度に達するのは死後12~15時間と言われているが、武が言う「トリカブト殺人」だとすれば、もっと早く最高度に達していた可能性もあるのだ。判決は「ワイシャツを着せようとして佐藤の腕を動かした形跡がある」と言っているが、武もアナリエもワイシャツを着せようとするときに佐藤の腕の関節を動かしたなどとは証言していない。武は「佐藤さんの腕が硬くてワイシャツのそでを通すことができませんでした」としか述べていない(第6回証言調書)。問題は佐藤の右腕の肩関節と肘関節であり、武がワイシャツの袖に通そうとしたというのが右腕か左腕かは分からないが、いずれにしても、この段階で佐藤の腕関節の硬直を解くような動作をしたことを示す証言はしていない。

死体の運びかた

 

着せ替えが終わった佐藤の死体をワゴン車に運び入れたときの様子について、武はこう証言した。

八木さんが佐藤さんの両わきで、私とアンナで片足ずつ持って、佐藤さんの死体ですが、を持って、運び出すことになりました。

***

すごく重たくて、足は硬くて、それでも、とにかく運ばなくちゃと思って、とても重かったのですが、運びました。

***

[ワゴン車に]座席があるんですが、佐藤さんの頭が座席のところ、座席のところというか、ワゴン車の後ろの窓が横にあるんですけれども、その窓の所にちょっと頭が掛かる高さで、そして佐藤さんの体は固まっていて曲がらなかったので、そのまま座席の上に乗せていたんですが、こう、何ていうんですか、斜めに置くしかできなかったんです。

***

上半身が座席の上に乗っていて、足が宙に浮いていた状態というんですか、曲げていたわけではなくて、足は伸びていて、中ぶらりん状態になっていました。(第6回証言調書)

 

すなわち、ワゴン車に運び込んだときの佐藤の死体は、硬直して曲がらず、2列目の座席に頭を窓のあたりまで持ち上げて斜めに置くことしかできなかった;そして足は伸びて宙に浮いていたというのである。しかし、この証言も法医学の常識と矛盾するのである。

武の証言によれば、彼女たちは、佐藤の死体にワイシャツを着せようとしたときと革ジャンを着せたときの合計2回、佐藤の上半身を90度ほどに起こしている。大野の回答書はこう指摘している。「すでに腰部は約90度に前屈できるように硬直が解かれているわけであるから、その後に頭と足だけで持とうとすれば当然腰部が『く』の字に屈曲することとなる。硬直が完成した時点では再硬直[4]は生じないか、かりに生じたとしてもごくわずかで、このように死体を持ち上げれば当然そのわずかな再硬直も直ちに緩解することとなろう。したがって、そのような持ち方では死体が一直線になって持ち上がることはないものと認められる。」。

これに対して、さいたま地裁判決は、武は「死体が完全な一直線になっていたなどとはおよそ証言していない」と言って反論している。確かに武は「一直線」という言葉遣いはしていない。しかし、武は、引用したように「佐藤さんの体は固まっていて曲がらなかったので、そのまま座席の上に乗せていたんです」「斜めに置くしかできなかったんです」と言っている。そして、ワゴン車の2列目の座席に佐藤の死体を真っ直ぐに横たえている様子を絵に描いた(図5‐1)。この段階で佐藤の腰の硬直が解けて、自由に曲げることができたのならば、腰を曲げて座席に座らせるのが最も自然な乗せ方だろう。わざわざ、体全体を車内に入れるために、窓の方まで頭を持ち上げる必要はない。

 

【図5‐1 武が法廷で描いた、佐藤をワゴン車に乗せた状態の絵】
図5-1 武が法廷で描いた、佐藤をワゴン車に乗せた状態の絵

 

 

実は、この証言にも捜査が影響を与えている。武は、平成12年12月9日、本庄警察署の駐車場で、警察の用意したワゴン車を使ってこの場面を再現する実験を行っている(H12/12/30実況見分調書)。このとき佐藤修一の死体の「役」を演じたのは警察官である。八木役が佐藤の頭の方から両脇を持ち、武役とアナリエ役が佐藤の左右の足を1本ずつ持って死体を運んでいる場面の写真を見ると、死体役は一生懸命に体を反らせて、体が水平になるように努力している(写真5‐1)。そして、ワゴン車に死体を乗せた状態の再現では体が一直線に伸び、足がドアから外に飛び出している(写真5‐2)。これらは佐藤の死体が硬直し腰が真っ直ぐに伸びていることを示す演出にほかならない。この実験の際に佐藤の足がドアから飛び出すことを知った武は、すぐにそれを素材にして、八木はワゴン車のスライドドアを閉めるときに、佐藤の足を車内に押し込んだというディテールを話に付け加えるようになった(H12/12/12検察官調書)。

 

【写真5‐1 犯行再現写真 死体役は腰を一直線に伸ばしている。】
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

【写真5‐2 犯行再現写真 死体役の足がドアから飛び出している。】
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遺書の筆跡

 

武の証言によれば、佐藤の「遺書」は2通存在する。1通は本文が漢字仮名交じり文で封筒に住所と宛名が書かれ、切手も貼られた「投函用」の遺書、もう1通は本文はひらがな、封筒には「佐藤アナリエ様」という宛名だけが書かれ、住所はなく、切手も貼られていない「置き手紙用」の遺書である。いずれも平成7年の初め頃に佐藤が書き、武がレオのロッカーに保管していたという。武は「投函用」の遺書は予定通り平成7年6月3日の昼間に「あさひ屋」という酒屋の前にあるポストに投函したが、「置き手紙用」の遺書は、佐藤殺害の際に渡辺荘に置いておく手はずだったのにそれを忘れてしまったという。八木の発案で急遽それも投函することになり、6月4日未明、東秩父の別荘に向かう前に、八木の自宅でその遺書を彼に渡したところ、八木はそれを持って一旦自宅に入り、手紙を持って戻ってきたときには、封筒に住所が書かれ、切手も貼られていたという。そして、八木は別荘に向かう途中に本庄郵便局前のポストにこの遺書を投函したというのだ(第7回証言調書)。この遺書は6月5日に渡辺荘に配達され、アナリエが本庄警察に捜索願いを出したときに、警察に提出し、そのコピーが佐藤修一の「変死記録」に綴られていた[5]

この証言が本当だとすれば、この遺書の本文は佐藤修一の筆跡であるが、封筒の住所の筆跡は佐藤のものではなく、八木かその家族の筆跡ということになる。ところが、われわれが依頼した早津輝雄の筆跡鑑定によれば、封筒に書かれた住所の筆跡は佐藤修一本人のものである。そしてまた、佐藤修一の実父太代人も、封筒の住所を見て「埼玉県本庄市寿」の文字は「確信をもって息子が書いたものに間違いない」と証言したのである(佐藤太代人証言調書)。

武まゆみは、われわれが早津鑑定書を提出し、佐藤太代人の証人尋問が終わった後に行われた再尋問で、この点についての証言を大幅に変更した。切手が貼られてなかったのは間違いないが、住所が書いてなかったというのは断言できず、住所はもともと書いてあったかもしれないと言うのである(第87回証言調書)。

さいたま地裁判決は、鑑定資料がコピーであったことや対照する文字数が少ないことを指摘して、鑑定書の信用性には「疑問が残る」という。「置き手紙用の遺書」はコピーしか残っていないのだから、それを鑑定資料にせざるを得ないという限界があることは間違いない。しかし、早津は、「遺書」の本文と住所を対照するだけではなく、佐藤が生前に書いたことが確認されている多数の資料とも対照して、住所の筆跡が佐藤のものであると結論しているのである。佐藤の父親が「息子の字に間違いない」と証言したことについて、判決は何もコメントしていない。

武が証言を変更したことについて判決はこう言っている。

仮に,武が,鑑定の結果を聞かされてこの点の証言を変更したのだとしても,他の証拠関係をもとに自己の記憶違いを正すということはあり得るところであって,証言を変更したとの事実だけから検察官に迎合して記憶の如何に関わらず証言を変更したものと即断することは困難である。

 

平成13年9月11日の公判で武は、八木が武から「遺書」を受け取って自宅に戻り、しばらくして武の運転する車の助手席に乗り込んで、それを助手席の前の台に置いたのを見たと証言した。

検察官:[八木が置いた遺書が]目に入りましたか。

武:はい、見えました。

検察官:何か気がついたことはありましたか。

武:はい、住所が書いてあって、切手が貼ってありました。

検察官:八木被告人が戻ってくる前は、どうだったんですか。

武:先ほども言ったように、切手も貼ってなかったし、住所も書いてありませんでした。(第7回証言調書)

 

武は平成14年5月28日の公判で「私が最初に持ってきたときには切手が張ってなかったんですけど、八木さんが持ってきたら切手が貼ってあったというのは間違いないんですが、住所に関してはちょっと、はっきりしません」「もしかしたら書いてあったかもしれないと思います」と証言を変えたのである(第87回証言調書)。
判決はこれを善意の「記憶違い」ということも「あり得る」、検事に迎合したと「即断するのは困難」だという。裁判官のこの態度は公正だろうか。武の証言によれば、彼女は半年間この手紙を保管していたのである。先に引用したように、武は投函直前の「遺書」を見たと言い、そのときに、切手が貼られ住所が記入されていたことに気付いたというのである。これは「日常のひとこま」ではない。これが真実だとすれば、八木やその家族が佐藤殺害の共犯であることを示す事情の一つである。筆跡鑑定や佐藤の父親の証言によってこれが覆ったということの意味を裁判官は考えたことがあるのだろうか。要するに、武という証人は、八木を罪に落とし込むためには平気で事実に反することを証言する証人なのである。それは「記憶違い」などではあり得ない。

遺書は2通あったか

 

武が言う「投函用の遺書」の存在は確認されていない。武の証言を前提とすると、この「遺書」は「置き手紙用の遺書」よりも早く本庄市内で投函されている。しかし、アナリエはその遺書が郵送されたのを見ておらず、捜索願いの際にもこの遺書のことは全然語られていない。その存在を示唆する客観的な証拠はどこにもないのである。

しかし、判決は、「武のみならず、アナリエも佐藤太代人も[この遺書の存在を]一致して証言しているところであって、仮に遺書が1通だけであったとすれば、武らが故意に漢字仮名交じりの遺書もあったなどという虚偽の証言をする必要性は全くなく、また、武らがそろって記憶違いをしているとも考え難いから、この点の武の証言は信用性が高い」などと言っている。

漢字仮名交じりの遺書の存在を最初に語ったのは佐藤太代人である。「保険金殺人疑惑」報道がはじまって1ヶ月ほど経った平成11年8月、岩手県の自宅を訪れた刑事に生前の息子の様子を語った太代人は、平成7年6月に息子の死亡を確認するために本庄市を訪れた際に、八木から修一の遺書を見せられたと言う。「もう4年も経っていますので全ては覚えていませんが、結びの部分には『短い間だったけど、結婚して幸せでした。修一』と漢字を織り交ぜて書かれたのは今でもはっきりと記憶しています」と太代人は言った。そして、刑事からアナリエが捜索願に添えて提出したひらがな書きの「遺書」を見せられると、「見覚えがありません」と述べたのである(H11/8/8警察官調書)。太代人はその後も同じ供述を繰り返し(H12/9/30警察官調書、H12/11/30検察官調書)、法廷でも同じ証言をした。

武やアナリエの話は、太代人の供述をなぞったものに過ぎない。武は、風邪薬事件を自白して間もなくのころから、佐藤の遺書についても言及していたが、そのころは太代人の供述に合わせるように「漢字かな混じりの遺書」のことしか話していなかった(H12/5/27検察官調書、H12/5/29検察官調書)。その後、「偽装自殺」供述をしていた時期になると、佐藤に遺書を2通書かせたという供述をするようになる。その時期は佐藤が利根川に飛び込んだ日(平成7年6月3日)の1週間から10日前であったという(H12/9/26警察官調書)。しかし、「投函用」「置手紙用」の区別については全然語られていない。そして、「トリカブト殺人」の供述をはじめるようになると、2通の遺書を書かせた時期はさかのぼり、平成7年5月10日前後に佐藤が「自殺」に失敗したよりも前の段階だということになった(H12/12/11検察官調書)。「投函用」「置手紙用」の区別が登場するのは平成12年11月28日の調書である。しかし、この調書では、公判証言とは逆に、「ひらがなの遺書」が投函用で、これを犯行当日の昼間にあさひ屋前のポストに投函し、「漢字かな混じりの遺書」が置手紙用で、最終的には犯行後に本庄郵便局前のポストに投函したというのである(H12/11/28警察官調書)。公判証言と同じ供述――「漢字かな混じりの遺書」=投函用=あさひ屋前のポストに投函;「ひらがなの遺書」=置手紙用=本庄郵便局前のポストに投函――が完成するのは、平成12年12月半ばである(H12/12/10検察官調書、H12/12/11検察官調書)。

アナリエが「遺書」について語り始めるのは武の供述が完成した後である(H12/12/12検察官調書)。しかも、彼女の話には「投函用」「置手紙用」の区別はなく、平成7年6月3日の昼間と4日未明に投函された2つの遺書の存在を示唆するに過ぎない。

こう見てくると、「漢字かな混じりの遺書」があったという武の証言がとくに信頼のおける証言であるなどとは言えないであろう。佐藤太代人が証拠の現存する「ひらがな書きの遺書」以外の遺書を見せられたと断言することから、それに合わせて「2つの遺書」の存在を前提とするストーリーを語らざるを得ないと彼女は考えたのである。しかも、そのストーリーの内容はいま見たように、変転している。アナリエの供述は武の供述をなぞっただけであって、独立の証拠価値があるとは思えない。

ところで、この話の発端である佐藤太代人の供述の信憑性はどうだろうか。彼は、本庄で八木から、漢字仮名交じりの佐藤修一の手紙を見せられたと証言する。けれども、彼はこういう風にも言っている。

こういう遺書があったんですよって、見せられたけど、私は遺書だとは全然思いませんでした。そう聞いて読んだけど、そういう文面になってないので不思議だったというのは、その時の気持ちなんですね。・・私は何か、遺書だ、遺書だって言うけれども、私は普通の手紙と思って見た(佐藤太代人証言調書)

 

 

 

太代人は、それ以前にも修一から漢字仮名交じりの手紙を数回受け取っている。それらの手紙と八木から見せられた手紙とを混同している可能性も否定できないであろう。

いずれにしても、「漢字かな混じりの遺書」の存在は確認できないのである。そして、佐藤太代人の証言は、武の証言を裏付けるものではなく、佐藤の供述が武の証言の出発点なのである。だから、彼の証言によって武の証言の信用性が高まるなどということはあり得ない。それにしても、裁判官たちは、佐藤太代人の証言の信憑性についてはなにも批判的な検討をしていない。後に指摘する、武の供述と矛盾する証人[6]に対する厳しい態度とはまったく違う態度である。この「ダブル・スタンダード」はさいたま地裁判決を貫くライトモチーフである。

布団、衣類、カーペット、洗濯機、冷蔵庫、テレビ……

 

武は、佐藤殺害の翌日から翌々日の2日間にわたって、八木と2人で、佐藤の布団、衣類、カーペット、洗濯機、テレビ、電話機などを、東秩父の別荘のそばにある林道の脇にあったゴミの不法投棄場所に捨てたと証言した。その現場は崖になっていて、八木は佐藤の布団を放り投げたあと、崖から下をのぞいて「見えねえから、大丈夫だろう」と言ったという(第7回証言調書)。

武は、捜査終盤の平成12年11月下旬に警察をこの場所に案内した。そこは八木の別荘から1・2kmほど離れた林道沿いの傾斜地で、冷蔵庫、テレビ、洗濯機などの家電製品や衣類などさまざまなゴミが文字どおり山のように捨てられている場所であった。警察は2日間かけて、機動隊のレンジャー部隊13人の応援を含む、総勢20人ほどで、その現場から約3・6トンのゴミを回収した。そしてその中から事件に関係ありそうなもの――衣類、布片、テレビ、洗濯機、ゴザなど――を押収してアナリエに見せたりして点検したが、結局、目的の品物は発見できなかった。この山林の所有者落合久美(ひさみ)によると、それまで10数年間に渡ってゴミが投棄されるままになっていた現場は、警察の捜索によってきれいに片付いたとのことである(落合久美証言調書)。

平成14年5月15日に裁判官によるこの現場の検証が行なわれ、われわれも立ち会った。現場は武がいうような「崖」ではなく、杉が植林されたまま手入れの施されていない傾斜地である。不法投棄されていたゴミは跡形もなく、きれいに片付けられており、埼玉県警のネームが入った「立ち入り禁止」の表示テープや警察が現場に打った杭やプレートが一部そのままになっていた。われわれは、布団を用意して、林道から斜面に思いっきり投げ捨てる実験をやってみた。いくらやってもそれは林道の端から数メートルの斜面に舞い落ち、武が言うように、「見えなくなる」ことはなかった。すると、現場にいた星景子検事は、わざわざ見えない位置を探しあてて「この位置からなら見えないよ。武はここに立っていたんだよ」などと大声をあげてアピールした。

地主の落合も、不法投棄現場の監視にあたる寄居町役場環境衛生課主任の柴崎徹も、この現場に不法投棄が始まってから警察が回収するまでの間に、現場からゴミが回収されたことはないと証言している。武の証言が本当であれば、たとえ5年前であっても彼女がここに捨てたという佐藤のスウェットやカーペット、冷蔵庫などが発見されるはずである。これが発見されなかったということは、武証言が虚構であることを示すのである。しかし、さいたま地裁の裁判官たちは、そうではないと言う。

布団や衣類は風雨にさらされた状態で5年半もの長期間放置されれば,分解飛散して判別不能になる可能性があるとしても,洗濯機やテレビなどは,真にそこが投棄場所であれば,警察による捜索の際発見されてしかるべきであって,武証言を裏付ける証拠物が1点も発見されなかったというのは,確かに腑に落ちないところである。

しかしながら,関係証拠によって認められる現場の状況に照らすと,検察官が主張するように,投棄物が現場の土中に埋没したり,捜索範囲外に移動していて発見不可能となっている可能性を全く否定はしきれない上に,[平成12]年12月23日付実況見分調書によると、「(武が,)「ここみたい。捨てたときに冷蔵庫や洗濯機がありました。」と申し立て布団等の投棄場所を案内した。」と記載されており,武は,投棄場所自体をそれとして明確に記憶していたわけではなく,同年になって捜査官を同行して現場を訪れた際,現に冷蔵庫や洗濯機が投棄されている場所を目にして,その地点を投棄場所として特定したものであることが推測される状況にもある。この点,武自身は,当公判廷において,「そこの道を何度も通っていたので,地形は分かっていた」旨一応証言してはいるが,現場は同様の風景が連続する林道中の一地点であり,格別特徴のある地形を構成しているというわけではないから,同年に訪れた際の現況をもとに投棄場所を特定した可能性はなお残されるのであって,寄居町の職員である柴崎徹が当公判廷において,この林道沿いには不法投棄場所が散在していたと証言していることにも照らすと,投棄場所がこの林道沿いの別の場所であったこともあり得ることといわなければならない。

衣類や布団が5年半で「分解飛散」してしまうという話をわれわれは聞いたことがない。すくなくとも、そのようなことを示す資料はこの事件の証拠の中にはない。

判決が言う「12月23日付実況見分調書」というのは、11月27日に武が警察を現場に案内したときの様子を記録した書類である。それによると、武はまず警察官を八木の別荘まで案内し、その前の道を道なりに進んですぐのところにある現場に迷わずに向かっている(H12/12/23実況見分調書)。迷うわけはない。別荘から現場までは一本道なのである。武は、12月18日に佐久間検事にこの場所に至る略図を書いて提出している(H12/12/18検察官調書。図5-2)。武の証言によれば、彼女は、平成7年6月4日に八木の別荘に行ったときに、八木と2人で林道を散策しながら、現場を通りかかり、そこに佐藤の衣類や布団などを捨てることを2人で決め、その後本庄の渡辺荘に行って荷物を車に積み込み、この現場に戻って衣類などを投棄したと言うのである(第7回証言調書)。行き当たりばったりにゴミを捨てたと言うわけではない。

 

【図5‐2 武が描いた投棄現場までの略図】
図5-2 武が描いた投棄現場までの略図

 

柴崎徹は、確かに、この林道沿いの山林の中に不法投棄場所が「散在」していると証言した。これは寄居町環境衛生課が管理している範囲に複数あるという意味である。しかし、武が指示した場所の近くには、この場所以外に不法投棄場所がないことは落合久美が証言しているし、検証の際にわれわれも確認した。裁判官も確認したはずである!

この現場付近の山林は「秩父古生層」という石交じりの火山灰土の地層である。そして現場の傾斜地には杉の木が林立している。落合も、過去にこの場所で土砂崩れや洪水が起こったことはないと証言している(第86回証言調書)。冷蔵庫やテレビ、カーペットなどが土砂に埋没したり、捜索範囲の外に移動するなどという判決の想定は、現実離れしている。

この場所から何も発見されたかったのであれば、佐藤の衣類やカーペットなどを捨てたという武の証言そのものを疑うのが素直である。さいたま地裁の裁判官たちは、ここでも武に肩入れし、武はこれらの物をこの近くのどこかに捨てたに違いない、それはまだ発見されずに土中に眠っているのだ、というのである。

さて、現場検証で布団の投棄実験を行ったときに、星検事がわざわざ見えない場所に言って「ここからは見えない」と叫んだというエピソードを前に書いたが、その2週間後に行なわれた武の再尋問で、武はこんな証言をした。

それが絶対に,見えないところまで落ちたかというと,それは分からないです。ちょうど私の位置から見えなかっただけかもしれないんですけど。でも,私からは見えなかったです。(第87回証言調書)

われわれ弁護人は思わず顔を見合わせて苦笑しあった。この訂正証言の成り立ちを裁判官に理解してもらうために言葉を沢山費やさなければならない、いやいくら費やしても彼らに理解してもらえないとしたら、それはかなり絶望的なことではないだろうか。

あんパン

 

武は、平成7年6月2日午後7時ころ、出勤途中にある「ファミリーマート」で「十勝あんぱん」を買い、これを犯行に使用したと証言している(第6回証言調書)。そして、本庄警察の捜査によれば、武の自宅と赤ちょうちんとの間に「ファミリーマートヤマキ本庄店」があり、伊藤製パンは、平成7年6月5日まで同店に「十勝あんぱん」を納品していたが、その後製造中止にしたということである(H12/11/20捜査報告書)。これは一見武の証言が客観的証拠で裏付けられたことを示しているように見える。しかし、そうではない。そのことは武の供述の経過と本庄警察の捜査の経過を並べてみるとよく分かる。

武が最初に「あんパン」の話をしたのは平成12年10月24日の佐久間検事の取り調べである。このとき武の脳裏に突然「あんパンの絵」が浮かんだという。

***すると、頭の中にパッとあんパンの絵が浮かびました。

そのあんパンは、ビニール袋に入った比較的薄い感じの安っぽいあんパンでした。

もっとも、この時私の頭に浮かんだあんパンが、実際に私が佐藤さんに食べさせたあんパンそのものというわけではなく、私が平成7年6月3日に佐藤さんに食べさせたあんパンはトリカブトの根っこがたくさん入り、しかも、食感がごまかされるように、つぶあんであんこの多いものを選んだ記憶があります。(H12/11/7検察官調書)

 

このように、武は平成7年6月3日に使用したあんパンはそのとき頭に浮かんだあんパンとは別物だといい、その特徴については「食感がごまかされるように、つぶあんであんこの多いもの」という以外には何も語っていない。そして買った場所については何も述べていない。10日後11月4日の鈴木刑事の取調べでも「普通の大きさのアンパンで、つぶあんのもの」としか述べていない。そして、「このアンパンについては、いつ、どこで買ったのかがはっきり思い出せません」と言っていたのである(H12/11/4警察官調書)。

第3章で書いたように、11月7日の武の日記には「三星マーク」の下に「『つぶあん』と書いてあるヤマザキのアンパンだったと思う。コンビニで買ったと思う」と書いてある。しかし、どのコンビニで買ったかは書いてない(武ノート8冊目:H12/11/7)。

11月15日の昼下がり、東松山警察署2階「困り事相談室」で、警察は武に5種類のつぶ入りあんパンを示した。その中に「十勝あんぱん」はない[7]。警察がこのときの様子を記録した実況見分調書によると、武は示されたものの中に同じものはないと述べたが、「形や大きさ的に似ているのはこのパンです」と言って、山崎製パン製の「小倉パン」を選び出した(H12/12/2実況見分調書)。

11月19日、鈴木刑事の取調べで、武は、当日使ったパンの商品名について「はっきりした記憶ではありませんが、アンパンの袋にひらがなで『つぶあんぱん』と書かれていたような気がします」と言い、購入場所については、「コンビニか何かで買ったのだと思うのですが、どこで買ったものだったかはっきりしません」と述べている。この供述は、11月7日の日記の記載に沿う。そのうえで、買った可能性のあるコンビニとして「ファミリーマート」と「セーブオン」の2つを挙げ、「出勤の都合上、立ち寄りやすかったので、回数多く買っている店です」と述べた(H12/11/19警察官調書)。

警察は、この2日前の11月17日から「セーブオン本庄東台店」と「ファミリーマートヤマキ本庄店」について、パンの仕入先の調査をはじめている。その結果、平成7年6月1日から同月3日までの間に、この2店舗につぶあん入りあんパンを納品していたメーカーを突き止めた(H12/11/28捜査報告書)。この2店舗は武の自宅と赤ちょうちんの中間に位置するから、警察は、そこに納品している製パン業者を調べたのである。

この警察の捜査の結果、次のようなことが分かった。2店舗につぶあんぱんを納入しているのは、伊藤製パン岩槻工場他4箇所であり、これらが当時製造販売していたつぶあんパンは「十勝あんぱん」他5種類であること、伊藤製パンの「十勝あんぱん」は、平成7年6月5日に販売中止となったこと、現在同社が販売している「パネトーネ酵母十勝あんぱん」は、生地とつぶあんの種類・分量は以前の製品と同じだが、外見は従来品よりもふっくらしていること、である。さらに警察は、11月29日に伊藤製パンから従来品の包装フィルムを入手している(H12/11/29任意提出書)。その包装フィルムには北海道の図柄が印刷されている。

警察は、11月30日午前、東松山署の「困り事相談室」で、この「パネトーネ酵母十勝あんぱん」を含む6種類のあんパンと「十勝あんぱん」の従来品の包装フィルムを武に示した[8]。警察が作った実況見分調書でそのときの様子を見てみよう。まず、警察は、6個のあんパンを包装紙から取り出して外見が似ているものを選ばせたが、その際に、「パネトーネ酵母十勝あんぱん」が「生地の表面に光沢(照り)がなく、ふっくらしている状態であり、特異に目立っていた」ので、犯行当時とは製法が異なり、当時のものは「他のあんぱんと同様表面には光沢があって、ふっくらとはしていなかった」と説明し、そのことを考慮に入れて選ぶように指示した。武は、「胡麻や白いつぶがのっていたかどうか、今は思い出せないが」と言って、「パネトーネ酵母十勝あんぱん」を含む3種類を選び出した。

次に、警察はパンを包装した状態で選ばせた。その際にも、「パネトーネ酵母十勝あんぱん」の包装紙は当時のものと異なっていることを教えて、伊藤製パンからあらかじめ入手していた従来品の包装フィルムを武に見せた。武は、このフィルムを示されると、「北海道の赤い地図に見覚えがある」「その日に使ったとは限らないが、何回か使ったことがある」と言った。武は、ここでも「パネトーネ酵母十勝あんぱん」を含む3種を選び出した。

最後に警察は、パンを半分に切って、内部の生地やあんの状態を基準に選ばせた。武は「生地と焼き具合が、他のパンと変わらなかったのであれば、餡の量が一番多い3番[「パネトーネ酵母十勝あんぱん」]が1番近い」と言って、これを選び出した(H13/1/5実況見分調書)。

この実験の3日後武は佐久間検事の取調べでこう述べた。

そのあんパンは、外見は安っぽい、私の言葉でいうと「しょっぱい」あんパンなのですが、あんこが多く、しかもあんこの質が水分が多くてしっとりしており、細工がしやすいこと、あんこの入っている穴に空洞が少なくて、あんこを押しても奥に引っ込まないし、断面を見ても、あんこの上に空洞がなく、トリカブトを仕込んだことがばれにくいという点で「優れ物」でした。

***私は、商品名にこだわっていなかったので、このあんパンの商品名は忘れましたが、パッケージに、あずき色のような紫色のような北海道地図が書かれてあったこと、「つぶあん」とか「あんぱん」とかいう文字が、すべてひらがなで書いてあったことを覚えていました。

私は、このあんパンを何回か使ったことがあり、仕込みやすいので気に入っていましたが、何回も同じ物を続けると佐藤さんが飽きるし、値段も高いので、たまにしか使いませんでした。

私は、そのあんパンを佐藤さんに最後に食べさせるのに選びました。

***私は、警察で、自分の目でそのあんパンを見つけ出しましたが、商品名は「十勝あんぱん」でした。

ちなみに、私は、このあんパンの値段は未だに教えてもらっていません。

そのあんパンについて私が刑事さんから教わったのは、平成7年当時と製法が変わっていることと、パッケージのデザインも少し変わってるということであり、値段は聞いていないので、120円とか130円とかいうのも、私の当時の記憶で言っているだけです。(H12/12/3検察官調書)

 

ここで武が、3日前に東松山警察署で体験したことを、自分の「記憶」として語っていることは明らかであろう。しかし、武は、重大なミスを犯した。彼女は、まだ警察から教えられていない情報として、「十勝あんぱん」は値段が高く、120円か130円したと述べているが、これは誤りである。平成7年6月当時販売されていた「十勝あんぱん」の定価は100円であった(写真5‐3)。11月30日に警察が武に見せた6種類のあんぱんのうち、「パネトーネ酵母十勝あんぱん」は最も高価で120円である。他は80円と100円である(H12/11/29捜査報告書)。11月30日の実験のときに、警察は「十勝あんぱん」について、製法が変わり外見がふっくらとして光沢がなくなったと説明したのであるが、値上がりしたことは説明しなかった。「パネトーネ酵母十勝あんぱん」の包装紙には目立つところに「¥120」と書いてある(写真5‐4)が、従来品の包装フィルムの定価表示はそれほど目立たない。武は、「パネトーネ」の値段が図抜けて高いことを知って、――当時は100円だったとも知らずに――「値段も高いので、たまにしか使いませんでした」などというもっともらしい作話をしたのである。

真犯人であれば間違えるはずのないことを間違えて供述してしまうことを「無知の暴露」と言い、これは無実を証明するといわれている(浜田2001pp45-47、176-184)。もしも武が真犯人であったならば、犯行に使ったという「十勝あんぱん」の値段を間違えたうえに、「値段が他のあんぱんよりも高かったので、たまにしか使わなかった」などという話をするだろうか。

 

【写真5‐3 「十勝あんぱん」】
写真5-3 十勝あんぱん

【写真5‐4 「パネトーネ酵母十勝あんぱん」】
写真5-4 パネトーネ酵母十勝あんぱん

 

さて、武のあんぱんの話はさらに進化する。12月12日の佐久間検事の取り調べで、武は、犯行に使った「十勝あんぱん」の表面には「粒粒があった」と供述したのである(H12/12/12検察官調書)。11月30日の実験では「胡麻や白いつぶがのっていたかどうか、今は思い出せない」と言っていたのに、この日になって突然武がこんな話を言い出したのはなぜか。答えは簡単である。警察は「十勝あんぱん」の従来品の表面に芥子粒が載っていることを知ったのである。警察が取り寄せた従来品のパッケージを良く見ると「原材料名」欄に「ケシの実」と書いてある(写真5‐5)。おそらく警察は製造業者に問い合わせてこのケシの実があんぱんの表面に載せるものであったことを確認して、それを佐久間かあるいは武本人に伝えたのだろう。それまでつぶがのっていたかどうか「思い出せない」と言っていたはずの武はこの日の取調べで、

私は、平成7年6月3日、トリカブトを細工した際、あんパンを左手で握ったのですが、その左手の親指がちょうど粒々に当たり、表面の粒々がボロボロとこぼれ落ちたのを記憶していました。

 

と供述するのである。そして、武は、法廷でこれと同じ話をした。

6月2日に仕事に行くときに,その出勤途中に通るファミリーマートというコンビニで,「十勝あんぱん」というものを買いました。

***パッケージに北海道の地図の絵が描いてあったことと,パンの表面に白いゴマをすりつぶしたようなものが乗っていたこと。これは私がそのあとトリカブトを細工するときなんですが,左手にパンを持っていたんですが,そのときの親指にそのすったゴマのようなものが当たって,ポロポロとこぼれ落ちた覚えがあるので,よく覚えています。(第6回証言調書。強調は引用者)

 

「どんな銘柄か思い出せない」「いつどこで買ったか分からない」「つぶがのっていたか思い出せない」と言っていた彼女は、法廷では逆に「よく覚えています」と断言することになったのである。「値段が高かったので、たまにしか使わなかった」という話は法廷では語られなかった[9]

 

【写真5‐5 「十勝あんぱん」の原材料表示】
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裁判所に提出された証拠資料を丹念にみれば、以上の経過は裁判官にもわかるはずである。ところがさいたま地裁判決はこの経過をまったく無視して「仮に武の供述が捜査官の誘導によってなされた虚偽の供述であるとすれば、単純に現在も販売されているあんパンを使用した旨供述すれば足りるのであって、武が、犯行当時販売されており、その直後に販売されなくなった『十勝あんパン』を使用したと証言していることは、その信用性を裏付ける事実である」などと言うのである。前に述べたように、警察は、武よりも先に武の行きそうなコンビニを割り出し、武よりも先に平成7年6月3日に販売されていたあんパンを探し当て、その中から武にパンを選ばせている。そして、武がそれを選ぶよりも前に、「十勝あんぱん」はその後販売中止となっていること知って、その事実を武に教え、当時の「十勝あんぱん」の概観やパッケージを武に教えているのである。武の供述が客観的証拠で裏付けられたのではなく、警察の得た情報に武が合わせたのである。


[1] アナリエは、佐藤があんパンを食べてから苦しみ出すまで約30分位であったという(第50回証言調書)。

[2] アナリエは、捜査段階では、苦しんで暴れ出した佐藤を押さえていた時間は5分位だった、5分位したら佐藤さんは動かなくなったと述べていた(H12/11/16警察官調書)。佐藤があんパンを食べてから苦しみ出すまでが30分くらいだったというアナリエ証言と合わせると、佐藤はあんパンを食べてから30分位で苦しみだし、35分位で死亡したことになる。

[3] 武はワイシャツの袖に腕を通すことができなかったと証言したが、アナリエは、片腕は通ったが、もう片方の腕が通らなかったと証言した(第40回証言調書)。

[4] 硬直が解かれた部分にもう一度硬直が始まる現象である。

[5] 次項で述べるように、「あさひ屋」に投函したという「投函用の遺書」の存在は確認されていない。

[6] 落合久美、鹿野幸次、川村富士美、堀野敏和、八木茂樹らである。

[7] 警察が示したのは、山崎製パン製「小倉パン」、敷島製パン製「大入りあんぱん」、ヒガシヤデリカ製「味わいベーカリー小倉あんぱん」、木村屋總本舗製「つぶあんぱん」、山崎製パン製「たっぷりあんぱん」の5種類である。

[8] 警察が武に示したのは次の6種類である。パネトーネ酵母十勝あんぱん(伊藤製パン)、「小倉あんぱん」(山崎製パン)、「高級つぶあん」(山崎製パン)、「北海道つぶあんぱん」(フジパン)「大入りあんぱん」(敷島製パン)「つぶあんぱん」(木村屋總本舗)。

[9] 伊藤製パンは平成12年12月11日付で本庄警察に「十勝あんぱん」の定価が100円であったことを回答している(H12/12/11回答書)。

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