第4章 捜査と公判の間

 

被告人が有罪か無罪かを決める資料となるのは証拠である。裁判官が証拠によらずに事実を認定するのは違法である。

では証拠とは何だろうか。刑事裁判では何でも証拠として使えるわけではない。証拠として使えるものには法律による制限がある。この事件についてマスコミは平成11年の夏以来「保険金殺人疑惑」として大々的な報道を行ない、八木と彼の愛人たちを犯人扱いし続けて来た。「マスコミの報道を見ると八木の有罪は間違いないですよね」などという話しをわれわれは色々な人から聞かされてきた。しかし、こうしたマスコミの情報を裁判で証拠として使うことは許されない。マスコミの情報源のほとんど全ては警察が公式・非公式に記者に与えた情報に過ぎないし、仮にマスコミが事件の「目撃者」から直接取材したのだとしても、その目撃者は法廷で証言しているわけではないから、その「証言」は裁判の証拠にはならないのである。

裁判で証拠として利用できるものの資格のことを「証拠能力」とか「許容性」という。証拠能力のないものは裁判では使えない。
それでは証拠能力の有無はどのような基準によって決定されるのか。その法則の多くは、「コモンロー」と呼ばれるイギリスの判例法によって500年以上の年月をかけて歴史的に形作られてきたものである。
錯綜したコモンローの証拠法則を分類整理して今日の証拠法の基礎を築いたジョン・ヘンリー・ウィグモアは、この法則を、
①証拠自体の信頼性(証拠価値)に基づく法則と、
②証拠価値以外の外在的な価値に基づく法則
とに分類した(Wigmore 1935, pp27-37)。

前者は、裁判で使用される証拠は一定の水準以上の信頼性を持っていなければならないという証拠法則を生み出す。典型的な例は伝聞法則である。法廷の外でなされた供述や噂話などは、法廷で宣誓の上でなされたわけではなく、また相手方の反対尋問のテストを経ていないので、信頼性が低い。だから証拠となる資格(証拠能力)がないのである。

後者は、証拠としての信頼性は高いとしても、それ以外の価値を守るために証拠としての利用を許さないという法則を生み出した。その典型的な例は、違法収集証拠の排除法則である。例えば、警察が裁判官の令状もとらずに、あなたの家に上がりこみ、勝手にあなたの机の引出しを開けて、拳銃を見つけたとする。この拳銃はあなたが銃刀法違反を犯した動かぬ証拠であり、その証拠価値は高い。しかし、警察のやったことはあなたのプライバシーを侵害する違法な行為である。このような違法捜査の結果を裁判所が証拠として利用できるということになれば、市民のプライバシーは非常に危うくなる。だから、このような証拠はどんなに証拠価値が高くても証拠能力がないのである。

さて、本章では武まゆみの法廷証言の証拠能力を検討する。確かに、武は、法廷で宣誓した上で証言した。われわれの反対尋問にも答えた。
しかし、その証言は、警察官と検察官による死刑にするぞという脅迫と、「否認していても有罪にする十分な証拠が揃っている」という嘘と、「八木はあなたが1人でやったと言っている」という嘘と、
そして、「自白すれば死刑にはしない」という約束に基づいて行われた証言であり、信頼性が著しく低いだけではなく、恐ろしく違法な手段によって作られた「偽りの記憶」を内容とする自白をそのまま法廷で繰り返しただけである、したがって証拠能力はない、とわれわれは訴えた。

しかし、さいたま地裁第2刑事部の裁判官は、われわれの主張を退け、武証言には証拠能力があると言った。

裁判所は、前章で触れたように、「量刑をテーマとする何らかの会話が検察官と[武]の間でなされた疑いは濃厚といわねばならない」と言ったり、八木が武が1人でやったと言っているというような検事の発言について、そのようなことを「武に告げたとすれば、その捜査方法は相当に違法性が高いものということができる」などと言っているのであるが、結局、取調室の中で武と佐久間との間でどんなやり取りが行われたのかについて具体的な事実を認定しなかった。判決は、また、公判が始まった後も検察官が連日のように武を訪れ、証言内容を話題にしたことを指摘し、彼女たちの間には「異様に緊密な状況」があったと述べた。しかし、裁判官たちは、この「異様に緊密な状況」が武の証言に及ぼした影響についてなんの分析も試みていない。判決は単純に、捜査と公判は別である、捜査の過程でどのようなことがあっても、公開の法廷での証言には問題はないのだ、と言っているだけのように見える。

われわれはそうではないと考える。

 

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