第3章 武まゆみの証言と記憶

 

8 仲鑑定

 

武の証人尋問が始まる1ヶ月ほど前に、われわれは、彼女の供述調書119通を東京都立大学人文学部助教授仲真紀子に送付して、渡辺荘事件に関する武の記憶の信頼性について鑑定を依頼した。

仲が鑑定書を完成したのは、武の証人尋問が終って半年近く経過した翌平成14年3月14日である。その結論は、武の渡辺荘事件についての記憶は「偽りの記憶」の可能性が高く、信頼性に乏しいというものであった。

 

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仲鑑定の概要

 

仲は、まず、「談話分析」という手法を用いて、各調書の供述テーマによるタグ付けを行い、時系列的な変化を見た。それによると、「過労死」や「トリカブト」に関する調書が6月7月という段階に登場するのに比べて、「自殺」が9月、「殺害」が10月に登場するということ、そして、10月以降「殺害」に関する調書の数が飛躍的に増えていることが特徴的であることがわかる。
仲は、この結果について次のようにコメントしている。

武氏は、6月以降、自白の態度で臨んでいるので、6、7、8月の早い時期に想起された「過労死」についての供述(トリカブトも含む)には、疑うべきところは少ないように思われる。また、5月に取られている捜索に関する供述も、佐藤氏の死に直接関連したことではないので、嘘をつく必要がなく、比較的信頼してよいと思われる。
これに対し、時間がたってから現れた供述には注意が必要である。例えば、「自殺」の供述は9月に3通の調書があるだけで、後は消えている。代わりに、10月以降、「殺害」の供述が現れ、しかも大量に調書が取られている。一般に、想起を繰り返すほど、事後情報や想像が記憶に混入する可能性が高くなり、誤情報の割合も増加することが知られている。

 

仲は、「過労死」「自殺」「殺害」「捜索」「想起」の5つのカテゴリーの中から時期的に早いもの3通ずつ合計15通の調書を詳細に分析することにした。

まず、各調書の文章をパラフレーズしてアイディア・ユニット(IU)を付けて、その時系列的な変化を見た。

その結果次のような特徴が見出された――

  • 「過労死」については、古い記憶でありながら、一連の体験が自然に想起されているという印象を受ける。
  • 「自殺」については、佐藤が行方不明になる前後の出来事がかなり詳細に語られている。
  • 「自殺」供述自体は9月に現れるが、5月以降に語られた「佐藤氏がいなくなった」という表現と合致するIUが見られる。
  • しかし、「自殺」の記憶が事実であるならば、「過労死」よりも先に語ってもよさそうなのに9月まで出てこなかったことには疑問が残る。

 

「殺害」供述の特徴について、仲は次のように述べている。

「事実」として語られる内容とともに、取調官とのやりとり、記憶の抑圧(思い出せない、映像がない)、想起過程(一生懸命思い出そうと努力する)、自己評価(思い出さないと風邪薬の自白も無になる)など、記憶の想起過程に関する供述が多い。アイディアユニット(IU)数は前者が133であるのに対し、後者は333である。***体験を語るのに、なぜ、それを想起した過程まで詳細に語らねばならないか。これは「捜索、過労死、自殺」の供述では見られないことであり、検討を要する。

 

そこで仲は、想起過程に焦点を当てることにして、想起に関するIUのうち、刑事や検事の質問や発言に関するものを抽出し、カテゴリー分けを行なった。その結果、刑事や検事の質問や発言には次のような特徴があることが分かった。

① 「自殺」に関する供述を信じない:取調官は「自殺」の供述に対し、不信感を表明したものと推測される。武は「自殺」とは別のことを話さなくてはならないとの圧力を受けた可能性がある。

② 主な死因はトリカブトであるというような印象を与える:取調官は、トリカブトの証拠があるとの印象を与え、トリカブトを食べさせた方向へと供述を誘導した可能性がある。

③ 「あなたの記憶だ」ということを強調する:「思い出せるのはあなただけだ」との圧力になり、また、「他との整合性は考えなくてもよい」という暗示にもなる。

④ 思い出すよう促す:武は記憶がないと訴えているにも関わらず、取調官は思い出すべき記憶があるかのように暗示し、思い出すよう圧力をかけている。

⑤ 誘導情報「いつ」:取調官は「いつ」と、殺した日があったかのような質問を行い、さらに「ショーの前」、「ショーの日」と、具体的な情報を提示している。

⑥ 誘導情報「トリカブトを食べさせた」:取調官は「最後の状況(殺害)」があったかのような印象を与え、思い出すよう圧力をかけている。彼らの発話は、「最後の状況」がトリカブト、食べる、パンに関するものであったかのような印象を与える。

⑦ 誘導情報「指示、指示の言葉」:取調官の言葉は、「殺害」について誰かから指示があったとことを示し、具体的に「押さえろ」との手がかりを与えている。

⑧ 「思い出したこと」が経験として想起されるよう促す:事情聴取では、体験を語らねばならないのは当然である。しかし、武は記憶がないと繰り返し主張している。このような状況で経験と想像を区別するよう圧力をかければ、想像や仮定をもとに「疑似体験」が作り出される危険性が高まる。

⑨「思い出したこと」の理由を考えさせる:武は映像を断片的に「想起」している。これらの映像が必ずしも事実である保証はない。映像について「思い出した理由」を考えさせることは、それが根拠のある事実であるかのような印象を与え得る。

⑩ 承認を与える:「自殺」については不信感を表明した取調官が、「殺害」については、「思い出すスイッチがある、ピースが埋まる」と承認している。このような発言も、「自殺」の記憶は誤りで「殺害」の記憶が正しいとする誘導になり得る。

 

次に仲は、武自身が渡辺荘事件を想起したプロセスを自ら語っているアイディア・ユニットを抽出し、その特徴を分析している。その結果、武の想起過程には次の4つの成分があることが明らかとなる。

① 思い出せない状態
② 取調官からの質問やヒント
③ 本人の想起努力(当時の場面をイメージする、長い時間考える等)や推論(~に違いない)
④ 記憶が(しばしば突然、断片的な映像として)よみがえる。

仲は、このような特徴をもつ武の想起過程の具体例を5個とりあげているが 、八木から「押さえろ」という指示を受けたことを想起したプロセスを見ると次のとおりである。

 

<「指示の言葉」を想起する過程>

① トリカブト入りのあんパンに関して誰からどんな指示があったのかはなかなか思い出せなかった。
③ 検事に「Yから指示された、間違いない」
② 検事は「どのような言葉で指示されたの」
③ 私は頭の中でYと私を対面させ、当時どのような会話があったのか再現しようとした
④ すると永山荘でYから太い根っこを他のと区別して1つだけ取り分けて保存するよう指示されたことを思い出した。

 

<『押さえろ』という言葉を想起する過程>

② 例えば、検事が「Yから『押さえろ』と言われた記憶はないか」
① そう聞かれた時は記憶がなかった
① 分かりませんと答えた
④ 他の場面の話をしているときYが「人聞きの悪いこと言うな、俺がしろと言えばなんでもするのか」と言ったのを思い出した
① これが押さえろに関するセリフとは思い至らなかった
④ ところが別の日に検事と違う話をしていると、渡辺荘でYから「押さえろ」といわれSを押さえた記憶がよみがえった
④ Yの「押さえろ」は夜房の中で一人でいるときに声がよみがえってきたので思い出した

 

仲は、さらに、この4つの成分により構成される想起過程がどのような特徴を備えているのかを分析している。それによると、

① 最初は思い出せない
② 当時の様子を思い浮かべようとする
③ 推測も行なう
④ 時間をかけて思い出す
⑤ 一生懸命思い出そうとする
⑥ 宿題にすることもある
⑦ そうすると、記憶は突然よみがえってくる
⑧ このように記憶が突然よみがえってくることを「降ってくる」という
⑨ 思い出された記憶には映像がともなう
⑩ これらの記憶はバラバラである
⑪ これらの記憶は、風邪薬事件の記憶とは異なる

という特徴が見出せる。

さらに、仲は、武が、思い出せないのは記憶を「頭の片隅」に追いやっているからであり、その原因は、八木から「佐藤さんは自殺だった」と繰り返し言われ、佐藤のことを口止めされたことと、殺害の場面が気持ち悪く恐ろしいので忘れたいと思っていたからだと説明している点に着目し、「この現象は最近話題になっている『抑圧された記憶』(より厳密に言えば、『抑圧され、あとで回復した記憶』)と類似している」と指摘している。

そこで、さらに進んで、仲は、「抑圧された記憶」に関するこれまでの研究結果や自らの研究に照らして、渡辺荘事件に関する武の記憶が信頼できるものなのかどうかを検討した。まず、仲は、「抑圧され、あとで回復した記憶」と呼ばれる現象における「記憶」の信頼性が低いことを数々の研究報告に基づいて指摘している。その根拠を項目的に列挙すると以下のとおりである。

 

① 「抑圧された記憶」に該当する客観的な現象は報告されていない:「抑圧された記憶」は(ⅰ)ショッキングな出来事が忘れられる、(ⅱ)忘れたという意識も失われる、(ⅲ)後で回復する、という特徴があるとされるが、この3要素を満たす客観的な資料はない 。

② 偽りの記憶(架空の出来事をあったように記憶するという現象)は多数の報告事例がある

③ 偽りの記憶を被験者に植え付けることは可能である:前述のロフタスの実験などのほか、仲自身の実験を引用して「子ども時代の記憶でなくても、偽りの記憶は容易に生じうる」という。

 

このように、「抑圧され、回復された記憶」の信頼性が一般的に低いことを指摘したうえで、仲は、武まゆみの渡辺荘事件の「記憶」が偽りの記憶を生じやすい6つの条件を全て備えていることを指摘する。

 

① 思い出すように圧力をかける:検事や刑事から「そんなことがあるのか、そんな話に乗る人がいるか」とか「とにかく投げ出さないで一日中事件のことを考えなさい」などと言われて圧力をかけられたり、自ら思い出さなくてはならないという内的な圧力を加えている。

② 繰り返しイメージを喚起する:武は想起のたびにそのイメージを喚起している。

③ イメージが偽りである可能性を追及しない:検事は「あなたがこの事件のことを一番よく知っている」などと告げて、武の喚起したイメージが偽りである可能性に目をつぶっている。

④ 補強証拠:検事は「佐藤がトリカブトで死んだこと、利根川で死んでいないことは立証する」と言ったり、さまざまなヒントを与えて、武の想起を誘導している。

⑤ 思い出せないけれど確かに何かあったはずだという信念:武は「もっとちゃんと覚えているはず」とか「トリカブト入りあんパンの記憶は正確に思い出せるような予感がある」などと、渡辺荘事件が確かにあったはずであるという信念を表明している。

⑥ 安全で信頼できる雰囲気:武の調書の記載や写真などから、刑事や検事に「信じてもらえる、支持してもらえる」という安全で信頼できる雰囲気の存在が示唆される。

 

以上の検討結果を踏まえて、仲は、武の渡辺荘事件に関する記憶は、「抑圧され、回復された記憶」の諸特徴をもっており、かつ「偽りの記憶」の諸条件を満たすものであって、その信頼性は低いという結論に至ったのである。

ところで、武は、自分が渡辺荘事件の記憶を失ったのは、その場面があまりにもむごたらしいものであったのと、八木から繰り返し「佐藤さんは自殺したんだ」を言われていたので、その話に「すがっていた」のだと説明している(武第15回、第17回、第18回、第19回証言調書)。

仲は、殺人というような衝撃的な行動の記憶は――明確な意識のもとで行なわれる限り――後に完全に忘れ去られてしまうことは通常あり得ないと証言した(仲第84回、第85回証言調書)。
さらに、仲は、実際に殺人を行なっていた場合に、後から「自殺だった」ということを繰り返し言われたとしても、それによって殺害の記憶が封じ込められてしまうということもあり得ないとも証言している(第85回証言調書)。

ちなみに、「抑圧」論者が報告するような神経症的症状を武は体験していない。彼女は、「記憶想起過程」でフラッシュバックを数多く経験しているが、記憶が想起される前のフラッシュバックを否定している(第19回証言調書)。また、日常生活や職場での原因不明の神経症状が起こったこともないと証言している(同前)。武にはどのような神経症状もない。

要するに、武がいう「記憶にふた」という「現象」は、現象ではなく、渡辺荘事件の記憶がないことについて、武自身が考えた1つの「説明」に過ぎないのだ。

 

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