第3章 武まゆみの証言と記憶

平成12年6月から10月までのノートの記載

 

鈴木刑事は、トリカブトを少しずつ与えていたという話は信用したものの、自殺の話は全く信用しなかった。「うそ発見器」にかけるなどという脅しまでされた。しかし、自分は嘘を言ってない、確かに、平成7年6月3日の夜自分は佐藤を坂東大橋のたもとまで連れて行った、その記憶があるのだ。武は、ノートに必死に自分の思いを綴ったのである。

平成14年証言では、武は、そうではなく、「偽装自殺」の話が嘘であることは百も承知で、ノートにそれが自分の記憶であると書いて、刑事や検事を騙そうとしたのであるというのだ。しかし、そうであるならば、刑事や検事を騙すために、一生懸命に「偽装自殺」の話をノートに書いたはずである。偽装自殺の話をし続けた6月20日から10月24日までの124日間のノートを見ると、偽装自殺に関連する話が出てくるのは僅か12日に過ぎない 。しかも、1日(8月5日 )を除いて、他は全て、鈴木刑事の取調べでのやり取りを日記に書いたものである。つまり、そこで述べられている事柄は、「刑事を騙すため」ならば、わざわざノートに記載しなくても良いことである。ノートに書かなくても、刑事はその話を直接武から聞いている。刑事や検事を騙すために、ノートを利用するというならば、むしろ、取調べのない日を選んでノートに自分のモノローグとして語らなければならないだろう。

 

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10月24日の経過

 

平成12年10月24日の佐久間の取調べについて平成14年証言がどうなっているかを見てみよう。武はその経過を次のように語った――

佐久間検事は、ディナーショーの前に佐藤さんを殺したのではないか、利根川に佐藤さんの死体をあなたが1人で担いで捨てにいったんじゃないかと追及した;その後、佐久間検事は、鈴木刑事が9月に作った「自殺」の調書について「随分怖い調書を作ってもらったわね。どういうことだか分かってるの」と言い、続けて「これは殺人の調書よ」と言った;私は「ひえー」と思い、思わず「えーっ、自殺教唆じゃないの」と尋ねた;佐久間は「自殺教唆」と「殺人」の違いを説明し、佐藤は死ぬと思っていないから自殺教唆にはならない、八木は佐藤を騙して自殺させたから殺人になると説明した;さらに、佐久間は、この調書では全てを八木の責任に押し付ける内容になっているとも説明した;この説明を聞いて本当の話をしなくちゃならないと思ったが、決心できなかった;その後に休憩が入り、休憩中にノートに「わけのわかんないこと」を書いた;休憩が終って再び取調室に入ると、佐久間検事から「佐藤さんに最後に食べさせたものは何」と尋ねられ、1時間近く下を向いて考えていた;下を向いて考えている間に「忘れていたことにしよう」というアイディアを思いついて、パッと顔を上げて「あんパンです」と答えた。

 

この説明によれば、「自殺の調書」についての佐久間検事の解説――「随分怖い調書を作ってもらったわね」――こそが、渡辺荘事件を自白する直接的な動機になっている。武は、再度の証言をする直前、平成14年5月13日に拘置所で佐久間検事と会い、実は平成13年証言は嘘で、渡辺荘事件の記憶はずっとあったのだという告白をしたという。その際に、彼女は平成12年10月24日の佐久間検事の「自殺の調書」のエピソードを初めて話したという。武は検事にこう言った――「忘れるはずないじゃないですか。だって、あの話がきっかけで私は佐藤さん殺しを自白したんですから、絶対忘れませんよ、ただ、それを言ったら否認してたこと[記憶がありながら隠していたこと]を認めたことになっちゃうから、だから、ずっと隠していたんです」と(第87回証言調書)。

実は、このエピソードがはじめて語られたのはずっと前のことである。平成13年10月下旬、われわれが彼女を尋問している最中に、武は「今ちょっと思い出したんですが」と言って、このエピソードを紹介している(第20回証言調書)。武が言うようにこの話がきっかけとなって「忘れたことにする」という重大な決断をし、「それを言ったら否認してたことを認めたことになっちゃうから」ずっと隠していたと言うのであれば、弁護人の反対尋問中に「今ちょっと思い出したのですが」などと言って、自分からその話を持ち出そうとするだろうか。武は自分が平成13年秋にその話を既に法廷でしていることをすっかり忘れているのである。それは忘れられないほど重要な秘密事項などではなく、大して重要な話ではなかったことを意味するであろう。

武によれば、佐久間検事から「自殺の調書」が「怖い調書」であると説明された後休憩に入り、その休憩時間中にノートに記入を行い、その後の取調べで検事の前で1時間近く下を向いて考えている最中に「忘れたことにしよう」と思いついたというのである。しかし、この証言はノートの記載と決定的に矛盾する。このノートには、まだアイディアを思いつく前であるはずの、事件の記憶がないことが書かれているのだ。これまでに何度も引用したように、ノートには「ちゃんと思い出さなくちゃ」「なんで、覚えてないのか」「その辺の前後の記憶だけが、スッポリとなくなっている」と書かれている(武ノート6冊目10/24)。

武はノートには「わけの分かんないこと」を書いたと弁解しているが、ノートの文章は、佐久間の話に衝撃を受け慌てている様子は明瞭に伺えるものの、自分でも何を書いているか分からないような、趣旨不明の語句は全くない。句読点もちゃんと打たれ、エクスクラメーションマークも適切な箇所に施され、括弧を用いて補足説明まで挿入している。この文章を読んで、何を書いているのか分からないほど精神錯乱に陥っている人を想像することは不可能である。

要するに、武は、佐久間が追及する「トリカブト殺人」の記憶などまったくなかったのである。全くなかったから、そのとおり、「覚えてない」とノートに書いたのである。「忘れたことにしよう」として嘘を書いたわけではない。

ちなみに、武は、平成13年秋には、このノートの記載は「[渡辺荘事件を]自白をしたあと」に書いたものであり、「自白した直後、今度は刑が怖いという恐怖感」を表現したものであると証言していた(第26回証言調書)。平成14年証言では先に引用したように「自白の前」の「休憩時間」に書いたと言うのである。武のこの証言態度は実にいい加減で場当たり的としか言いようがない。

 

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その後のノート

 

武は、平成12年10月24日に佐久間検事によって渡辺荘事件の中核的部分――佐藤修一にトリカブト入りのあんパンを食べさせた――を自白させられて以降、その前後の状況や犯行の細部を一生懸命に思い出そうとする。その経緯については、平成13年秋にも証言されたし、また、武ノートを見ると非常にビビッドにその有り様が伝わってくる。要するに、武は、検事から様々なアイディアや情報を提供してもらい、それを手がかりに、一日中当時のことを必死に考えつづけ、そうしたなかで断片的にかつ順不同に現れる映像や音声を手がかりに、さまざまな類推や解釈を行なうといった作業を際限なく繰り返して行き、ようやく平成12年12月半ばに至って、1つの完結した、細部を伴った物語を完成させたのである。武ノートには「三ツ星マーク」を付した「ひらめいたこと」「思い出したこと」が随所に現れる。これを見ると、文字どおり、順不同かつ断片的に細部を思い出して行ったことは明白である。例えば、渡辺荘での着せ替えについてみてみると、10月27日に「アンナがハサミを持っている絵」が出てきたが、しばらく進展はなく、11月1日に今度はアナリエが履かせるはずの靴下を武が履かせた経緯を思い出している。そして、11月20日には革ジャンの襟と袖口を切ることに関連すると思われる八木の発言を思い出した。着せ替えをする前の佐藤がどうなっていたかと言うと、12月2日になってようやく「パンツ1枚」であったことを思い出している、という具合である。

さらに、武ノートによると、ある出来事の細部をある日に思い出したが、その後にその訂正が行なわれている場合がある。その例を2つだけ挙げる。

まず、「ゴミ箱」である。武ノートによると、彼女は、平成12年11月14日に、佐藤が洗面器を抱えていたことを思い出し、その様子をこう語っている。

それから、八木さんが、アンナに、
「洗面器を持って来い」
と言って、持って来させた。→佐藤さんが、洗面器を持って、かかえている絵。
その時にアンナは、それを見てオエーオエーとしていた。
洗面器の中の物は、アンナが、トイレに流した。→八木さんに言われて。(武ノート8冊目11/14)

そしてその翌日、武は頭に浮かんだ洗面器の絵をノートに描き、「色はブルー系で、水色か、うすい紫色のようなものだった気がする」と書いている(写真3-1:武ノート8冊目11/15)。

写真3-1 武ノートH121115

 

 

 

ところが、その2日後、武のこの記憶は変容を遂げる。11月17日の日記では、アンナは「洗面器」ではなく、「ゴミ箱」を持ってきたということになっている。そして、今度は円筒形のゴミ箱の絵をノートに描き、「たぶん水色か、青だったと思う」「入口の所が穴もようになっていたものだと思う」というコメントが付されている(写真3-2)。

写真3-2 武ノートH121117

 

 

 

平成14年証言では、武は、佐藤がゴミ箱を抱えていた場面を忘れたことはないと断言した(第86回・第87回証言調書)。武はこのノートの記述の変更について、こう説明している:

あんまりすらすらしゃべったら、何だちゃんと覚えてんじゃん、忘れてないんじゃんって思われちゃうから、わざと勘違いしたふりとかをしてたんですけど。
***
[2日後に思い出したことにしたのは]2日たったからとかっていうそこまでは計算してないですけど、最初に洗面器の話をして、勘違いしてたことにして、それで、後から本当のことをしゃべったほうがいいと思ったんですけど。
***
検事さんが、私が覚えている、ちゃんとこの人は忘れてないということを見抜いてると思ってましたから、どうしてもとぼけなくてはならないと思って。(第87回証言調書)

 

次に「あんパン」である。武の平成12年11月7日の日記によると、その日、武は「6月3日に食べさせたあんパン」のことを思い出し、それは「『つぶあんぱん』と書いてある、ヤマザキのあんパンだったと思う」とコメントしている(武ノート8冊目11/7)。

その8日後(11月15日)、武は東松山警察署2階困りごと相談室で、5種類のつぶあん入りパンを示されて、当日使用したのとおなじ物があるかと訊かれ、「この中にはおなじものはありません」が形や大きさが似ているのは「1番の山崎製パン製の小倉パン」と答えた(H12/12/2実況見分調書)。

次に、その4日後(11月19日)には、鈴木刑事から当日使ったパンのことを聞かれて、「当日、使ったあんパンの品名は、はっきりとした記憶ではありませんが、アンパンの袋にひらがなで『つぶあん』と書かれていたような気がします」と答えている(H12/11/19警察官調書)。

今度は、11月30日に、再び東松山警察署2階困りごと相談室で、6種類のあんパンを示されて、どれかと尋ねられ、武は「胡麻や白いつぶがのっていたかどうか、今は思い出せない」けれども、パッケージの「北海道の赤い地図に見覚えがある」と答えた(H13/1/5実況見分調書)。

そして、その2週間後12月12日の佐久間検事の取調べでは、「平成7年6月3日トリカブトを細工した際あんパンを左手で握ったとき左手の親指がちょうど粒粒に当り、表面の粒粒がボロボロとこぼれ落ちたのを記憶している」とはじめて供述した(H12/12/12検察官調書)。

武は、平成14年5月の法廷では、メーカーや銘柄については最初は分からなかったが、使用したあんパンは、そのパッケージに北海道の地図が描いてあって、パンの表面にけし粒が乗っていたことは、忘れたことはない、刑事からいろいろなパンを見せられて、それが伊藤製パンの「十勝あんぱん」であることが分かったと証言した(第87回証言調書)。

それにもかかわらず、武は、平成12年11月7日の日記に「山崎製パンのつぶあんぱん」であることを思い出したと書き、11月15日には北海道の地図のことは伏せて、大きさや形が似ているのは「山崎製パンの小倉パン」だと説明し、11月9日には「袋に『つぶあんぱん』と書かれていたような気がします」とだけ供述し、11月30日には「北海道の地図」には「見覚えがある」と言ったものの、「胡麻や白い粒がのっていたかどうか、今は思い出せない」とはぐらかし、最後の最後、12月12日になって「粒粒がぽろぽろ落ちた」と供述した、と言うのである。

この経過についても武は、
これも先ほどと同じで、あんまりすらすらしゃべったら、全部忘れてないじゃんって思われるから、忘れてるふりをするのには、ところどころ隠したほうがいいかなと思ったんです。(第87回証言調書)

と説明した。
忘れたふりをするのは可能であろう。そして、人から説明されて「ああ、そう言えばそんな感じはする」などととぼけることも可能だ。人間にはそうした能力が備わっている。しかし、短くはないストーリーを全部丸ごと忘れていた「振り」をしたうえ、今度はそれをばらばらにパズルのピースを無造作に箱から取り出すようにひとつひとつ思い出した「振り」をすることは可能だろうか。

そのうえ更に、ある断片的な事実を思い出した振りをしたうえで、それが誤りであったとして重ねて思い出すという演出をすることは可能だろうか。そこまで手の込んだことを思い付き、実行できるという人間はどんなキャラクターなんだろうか。連日朝から晩まで取調室の中で検事から自白を求められている武にそのような余裕があったであろうか。そして、武にはそこまでする必然性があっただろうか。

「当時のことを必死になって思い浮かべていたら、記憶がよみがえってきました」と佐久間検事に言えば、あとはそのまま事件のストーリーを語れば良かったし、佐久間はそれを受け入れたであろう。――本当に「事件の記憶」があるならば。

武ノートによると、渡辺荘事件についての詳細を極めた自白を完成させたあとも、なお、思い出せない場面があったことになっている。武はノートにこう書いている。

まだ、あと少し話さなければならない所がある。一番汚い、こわい部分だ。それが強すぎて、絵を頭に思い浮かべることが出来ない。がんばらなくては、あと少しなのだから、と自分に言い聞かせている。(武ノート10冊目12/17)
思い出さなくちゃ!何で忘れてんだ。バカ者!
戻せ戻せ。頭を。宿題、できてなーい。あせったら、余計に思い出せないぞ!時間がない、どうしよう。集中しなくちゃだぞ!(武ノート10冊目12/20)

 

この記載についても、武まゆみは「検事や刑事を騙すためのウソ」と言い張るのであろうか。しかし、この記載からは非常にひたむきで健気な武の姿が目に見えるようである。とにかく、絶対に、最後の最後まで、隅々まで、事件のことを思い出さなければならない、がんばれ!そういう一途な姿がひしひしと伝わってくる。
一体誰が彼女をそこまで駆り立てたのであろうか。そして、一体誰が、この純粋な姿を、狡猾極まりない薄汚れた大嘘つきの姿に変えてしまったのだろうか。

 

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