第1章 溺死

・汚染の可能性

 

検察官は、佐藤の腎臓から珪藻類が検出されたのは、佐藤の死体の表面や他の臓器に付着した珪藻類が腎臓に付着したためであると主張した。その第1の根拠は、プランクトン検査の診断的価値を全く認めていない齋藤一之教授が佐藤の臓器を同じポリバケツにホルマリン漬けにしていたことである。

齋藤は、佐藤修一の解剖について具体的にどのような手順でこれを行ない、佐藤の臓器をどのように処置したのかについて殆んど記憶していない。7年9ヶ月前の出来事であり、写真等の記録もないのであるから、これはしかたのないことである。齋藤が普通に行なっていることとして説明する解剖の手順から事態を推測する以外にはない。

齋藤が通常行なっている解剖手順によれば、臓器を取り出す順番は、心臓、腹部諸臓器、最後に肺と気管支であり、腎臓は肝臓や腸を摘出したあととのことである(齋藤証言)。肺や気管支に存在した珪藻類がこの段階で腎臓に付着することはありえない。しかし、解剖に着手する前に体表面に触れているのであるから、その同じ手で腎臓を摘出している以上、体表面に付着した珪藻が腎臓の表面に付くことはありえるだろう。そして、齋藤は摘出した臓器すべてを容量4リッターほどの密栓付のバケツに入れたホルマリン水溶液に一緒に入れていると言うのであるから、ホルマリン水溶液にプランクトンがあれば、当然それがホルマリン水溶液のなかで臓器に付着することもありえるだろう。

齋藤によれば、肝臓は普通右葉部分を数センチメートル幅にスライスしてホルマリン水溶液に入れる。肺は上葉中葉下葉のそれぞれについて一部をスライスする。腎臓は、周囲の皮膜を取り除いてスライスするとのことである。そして、ホルマリン水溶液は解剖後1日2日して一度新しいものと交換し、2~3ヵ月後に標本室に移す時にもう一度交換したあとは交換しないのが通常であるとのことである。ただし、佐藤修一の臓器に関しては警察に提出する段階で取り替えたかもしれないと証言した。

臓器の表面に付着したプランクトンがホルマリン水溶液のなかで浮遊していたとして、それが臓器のホルマリン水溶液に接していない部分に入り込むということはありえない。プランクトン検査の有意性を強く否定する齋藤もホルマリン水溶液中にプランクトンがあったとしても、ホルマリンに浸漬されていない臓器実質の中心部分にまでは汚染が進まないことを認めている(齋藤証言)。上野正彦は、臓器に太い血管があればそこからプランクトンが入り込む可能性があるとか、腎臓の血管の中にホルマリンからプランクトンが入り込む可能性があるなどと証言した。しかし、血管があるのは肝臓も同じである。ホルマリン中に浮遊していたプランクトンがあったとして、それが腎臓の血管だけを選んで入り込むなどということはありえない話である。しかも、科捜研が撮影した写真によれば、腎臓の表面は平滑なのに対して肝臓のスライスしたものには空洞が多数空いている(写真1-2)。この意味では、腎臓よりも肝臓の方が汚染の可能性が高いのである。

 

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写真1-2:腎臓

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写真1-2:肝臓

 

要するに、齋藤の解剖の際に摘出された臓器の表面にプランクトンが付着していたとしても、あるいは、ホルマリン水溶液の中で臓器の表面にプランクトンが付着したとしても、プランクトン検査を実施する前に、ホルマリン水溶液に接した部分を切り取り、臓器の内側部分を検体とすることができるならば、佐藤修一の臓器についてプランクトン検査を実施して有意なデータを得ることは可能なのである。本庄警察と科捜研は、このような観点から、多分プランクトン検査の理論と実務に造詣の深い法医学者の助言を得たうえで、佐藤修一の臓器についてプランクトン検査のための試料調製を行ない、この検査を実施することを決断したのである。最初から、試料汚染により意味のある検査ができないと判断していたのであれば、このようなことを実施しようとするはずはないだろう。

本庄警察は、ホルマリンに接していない部分の臓器を取り分けて試料調製することを、その具体的な方法まで指示した上で依頼している(本庄警察H12/8/1試料調製依頼書)。そして、野澤靖典は科捜研の技術吏員として、この依頼に基づいてホルマリン水溶液に接していない部分の臓器を取り分け、いわゆる「壊機法」による試料調製を行なったのである(野澤H12/8/14試料調製報告書)。

野澤の証言によれば、彼の試料調製の過程で臓器間の資料汚染が生じた可能性は皆無といってよい。彼は、試料調製にあたって大中小3本1セットのペティナイフとやはり大中小1セットのピンセットを用い、下にプラスチックの台とアルミホイルの上に紙製の実験用シートを数枚重ねて使用し、ペティナイフとピンセットは、資料ごとに強力なアルカリ洗剤で洗浄し、水道水と純水ですすぎ、下敷きについても資料ごとに全部新しいものに取り替えた(野澤証言)。そして、試料調製の順番は、肝臓、腎臓、肺の順番であるから(同)、肺に付着したプランクトンが腎臓につくということは絶対にありえない。

ところで、野澤は、検察官から「腎臓の外側部分を完全に除去できたと断言できるか」と尋ねられて、こういう証言をした。

  ***肝臓は元々大きいんでかなり除けてる。それで十分かどうかも分かりませんけども,相対的な問題としては,肝臓はかなり除けてると思います。しかしながら,腎臓のほうは小さいので,比較でいえば肝臓ほどは取れていません。また形が若干不定型だったものですから,例えば窪みがあるとか,そういう部分については取り切れない部分もあったかもしれません。

われわれは、野澤の証人尋問をする前に彼に面談を申し込んだが断わられた。文書での質問には答えるというので、科捜研化学4課を通じて、試料調製の経過に関する質問事項を書面にして送った。それに対して彼は自筆の回答書をファックスで送ってきた。

 質問11:資料(1)(肝臓)及び資料(2)(腎臓)については、「ホルマリン水溶液に接していない部分」 を切り出したとのことですが、ホルマリン水溶液に接していない部分は肉眼で確認されたのでしょうか。

――肉眼で見て確認or判断しただけ。

質問12:資料(1)及び(2)について、ホルマリン水溶液に接した部分は試料に混入していないことについて自信がありますか。

――自信の有無という主観的表現の質問には、回答できない。

質問13:報告書によると、腎臓の元重量28.5gのうち、10.43gを切り分けたということですが、これは簡単にいうと、腎臓の内側3分の1の分量を切り分けたと理解してよろしいでしょうか。

――質問の意味不明であるが、操作内容としては、腎の外側(ホルマリン溶液に接する部分)を少しずつ切り取り、除き、最後に残った重量が10.43gであったということである。

 

質問事項12は法廷での検事の質問と同じであるが、野澤は「主観的表現の質問」だから回答できないと言うだけで、腎臓が小さかったとか窪みがあったから充分とれなかったなどとは言っていなかった。「試料調製報告書」にも彼は腎臓に関しては「ホルマリン水溶液に直接接していない部分を包丁で切り出して処理資料とした」と書き、十分に外表部を除去できなかったなどとは一言も書いていない。

もしも、この段階で要求された試料調製が十分にできなかったのであれば、そのことを彼が報告書に書くのを躊躇しなければならない理由はどこにもなかった。そして、仮に科学捜査研究所が検体について「汚染の可能性」を心配していたのであれば、そもそもその段階でプランクトン検査を断念していたはずである。プランクトン検査を断念せずに、これらの検体をそのまま生物学者の鑑定に委ねたということは、科捜研が組織として自信をもって検体を用意できたと考えたからに他ならない。

野澤はなぜ法廷であんなことを突然言い出したのだろうか。これは「科学捜査研究所」という組織の性格に起因する問題だと思う。科捜研は県警本部の下部組織であり、県警本部の指揮命令系統に服している。証言の前に野澤はわれわれとの面談を拒否したが、検察官とは何度も打合せを重ねたであろう。われわれの質問には、主観的なことには答えられないと科学者らしく振舞ったのに、検察官の質問には躊躇することなく、彼女の望むとおりの答えをした。その背後にはこの国の「科学捜査」の抱える根本的問題が潜んでいるのである。

 

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