第1章 溺死

3 上野回答書

 

元東京都観察医務院院長上野正彦は、本庄警察署から佐藤修一の死因について問い合わせを受け、「少なくとも溺死ではない」と回答した(H12/9/27回答書)。さらに彼は「致死量のトリカブト摂取によるアコニチン類の中毒死と判断する」との回答までしている(H12/11/28回答書)。この2通の回答書がその後の捜査の行方に決定的な影響を及ぼしたことは明白である。そこで、この2通の回答書について詳細に検討することにしよう。

 

・平成12年9月27日付回答書

 

上野は、次の5点を根拠に、「少なくとも溺死ではない」「地上で死亡した死体を利根川に投棄した可能性が高い」との判断を示した。

  1.  溺れて水底に沈み川底を長距離にわたって流されたような死後の擦過損傷がないこと
  2.  利根川を28kmも下流に流されているにもかかわらず、着衣が脱げていないこと
  3.  錐体内出血・うっ血がないこと
  4.  胃内容が30mlと少ないこと
  5.  肺重量が比較的軽く、また、胸腔内液の量も少ないこと

 

これらの点が溺死を否定する根拠たりえるかどうかを検討する前に、上野が果たして公正な「鑑定人」と言えるかどうかをまず見ておかなければならない。

上野は、「法医学評論家」「犯罪コメンテーター」として、マスコミ関係者からの取材に応じて、世間の注目を集める殺人事件について意見を公表する一方、自らの法医学者としての経験談を多数収録した「死体シリーズ」14冊を刊行している。注目すべきなのは平成13年1月発行の『保険金殺人鑑定:死体の叫び』(ぶんか社刊)と同年7月発行の『ずっと死体と生きてきた。』(KKベストセラーズ刊)の二つである。『死体の叫び』では「前代未聞の風邪薬による殺害」のタイトルで、こんなことを書いている。

 昨年、埼玉県本庄市保険金殺人疑惑が話題になった。その後、警察の捜査が進み、今年に入ってからは主犯格と見られる金融業を営む男、逮捕当時50歳と、これを手助けしていた3人の女性が、殺人ないし殺人未遂などの容疑で逮捕された。

犯行に関与した女性も含めて、男の周りでは、少なくとも男女9人が総額24億円に上る保険に加入させられていた。月々の掛金だけでも、一時期150万円を超えており、それを男がほとんど支払っていたというからまさに異常だ。男は容疑を否認しているそうだが、それならば、何のための出費だったのか、神経を疑いたくなる。

これら保険金をめぐる疑惑の中でも、警察がこの男の犯罪の原点として捜査を進めていたのは95年の事件だ。当時、利根川で水死体で発見された男性(当時45歳)の妻は、やはり男の近辺で犯罪を手助けしていたと見られる3人の女性のうちの1人だった。この一件は、最近になってトリカブトが原因だという話も出ている。この男性の死によって妻には3億円の保険金が支払われているが、この一件はいまだ犯罪としては立件されてはいない。

上野は、八木茂を「前代未聞の風邪薬による殺害」の「主犯格」と断定し、事実を否認する八木茂のキャラクターについて「神経を疑いたくなる」とまで言い、さらに続けて、「この男の犯罪の原点」として、佐藤修一事件を指摘しているのである。著者が脱稿して数回の校正を経て初刷りが出来上がるまで少なくとも数ヶ月以上はかかる。この部分の執筆は、上野が本庄警察から佐藤修一の死因についての照会を求められた平成12年9月よりも前に執筆されたと考えるべきであろう。要するに、上野は、警察から佐藤修一の死因を問われる前の段階で、マスコミの情報に基づいて、佐藤修一の死因は溺死ではなく、一連の「保険金殺人」の「犯罪の原点」であると判断していたことになる。

 

さらに、平成13年7月に刊行された『ずっと死体と生きてきた。』には次の記述がある。

 次の事件は、入水自殺を装って保険金を騙し取ろうとした殺人事件の例である。5年前の事件について、私はある記者から取材を受けていた。記者は私に現場の写真を示しながら、事件の概要を説明しはじめた。

ある日、大きな川の水門で一体の漂流死体が発見された。死体は中年の男性で、その時点ではまだ身元は不明であった。警察の検死の結果、腐敗がひどくて、死因は特定できないとして、一応司法解剖をすることにした。解剖は大学の法医学の専門家によって行われたのであるが、腐敗のためにはっきりした所見は崩れており、やはり死因は特定できないとの結果になった。それから数日後、死体の身元が判明し、男の自宅から遺書が発見された。体調不良、事業の失敗が自殺の動機であった。こうして事件は入水自殺として処理されたのである。ところが、事件から5年たって、この死亡者に多額の保険金が掛けられていたことが判明し、その男の雇い主である不動産業の社長が殺人の容疑者として浮かび上がった。死亡した男性は保険に加入して2年半たっていたので、自殺でも保険金は支払われ、受取人であった社長は既に大金を受け取っていた。

***

死体はトレーナーを着用したまま、水門に浮遊ごみと一緒に浮いていた。うつぶせになっているが、腐敗ガスが充満し、風船を膨らませたように、あるいは、土左衛門と呼ばれるように膨れ上がっている。6月という蒸し暑い梅雨の季節のことであった。

自宅は発見場所から約30kmも上流にあるという。***トレーナーを着たまま30kmも川を流れてきたというのは腑に落ちない。

***

この死体には損傷が見当たらない。着衣を着たままであり、しかも、死後の傷もないのは、やはり初めから水面を流れてきたからであろう。そう考えれば、この男は入水自殺ではなく、何者かが死体を川に投棄したと考えてよいのではないか。

5年前に解剖して、腐敗のため死因は特定できないと判定されたケースを、死体写真を見て溺死ではないと私は判定し記者に告げた。

 

上野はここでも本件を念頭において、記者の説明と見せられた写真のみを根拠に「入水自殺ではなく、何者かが死体を川に投棄した」のであって、「社長」は自殺を装って殺人を犯し、まんまと大金を受け取っているのだと判断しているのである。

この著書の出版は平成13年7月である。執筆時期はいつなのだろうか。上野は著作のなかで、自ら検死や解剖を行なったり、警察から意見を求められた事件についてはその点を明記していることが多い[1]。もしも執筆の時点で本庄警察に対する2通の回答書を書いていたのであれば、その点を著書にも書くはずである。少なくとも、「警察から相談を受けた」と書くであろう。この「事件」に関してはそのような記載がまったくなく、「記者から取材を受けた」「記者は私に現場の写真を示しながら事件の概要を説明しはじめた」としか書いていない。また、解剖所見を見たとの記述も見当たらない。やはり、この記述も、本庄警察から照会を受けるより以前に執筆されたと考える方が合理的である。

要するに、上野正彦は、警察から照会を受ける前に、佐藤修一は溺死ではなく、保険金詐欺を目的として殺害されて、死後川に投棄されたと断定しているのである。否認する八木茂の態度を「神経を疑う」とまで言っているのである。そして、その自らの意見を著書に断定的に記載して広く公表しているのである。このような人物に、鑑定人としての客観的かつ公正な判断を期待することなど到底不可能ではないだろうか。

さて、本題に入ることにしよう。上野が佐藤修一の死因を「すくなくとも溺死ではない」「死体を利根川に投棄した可能性が高い」と判断した根拠について一つ一つ検討する。

 

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