第1章 溺死

6 結論

 

われわれは、公判準備の過程で、埼玉県警が佐藤修一の臓器について溺死診断のためのプランクトン検査を行なったのではないかという疑いをもった。そこで、検察官に対してプランクトン検査報告書の存在について釈明を求め、あるならばそれを開示するように求めた。検察官はわれわれの要求を徹底的に無視しつづけた。裁判所からの質問に対しても「答える必要はない」などと応答した。しかしながら、武まゆみらの尋問が終了し、いよいよ鑑定関係の証人尋問の期日が近づいた段階で、上野正彦が問題のプランクトン検査報告書を読んでいるのではないかという疑惑が明らかとなり、裁判長から「上野証人がこれを見ているのであれば、弁護人がそれに関する尋問をするのは正当である。その段階で尋問が中断するということでは困る」という趣旨の指摘があり、検察官はプランクトン検査報告書の存在を明らかにせざるを得なくなった。そして、公判が終盤に近づいた平成14年1月になって、ようやくわれわれはこれを目にすることができた。

このようにしてようやく陽の目をみたプランクトン検査の全貌は、これまで述べたとおりである。そして、その指し示すものは、佐藤修一が利根川の河川水で溺死したことを雄弁に物語るものであった。この証拠を仔細に検討すればするほど、佐藤修一の溺死は動かしがたい事実として浮かび上がってくるのである。神は細部に宿り給う。僅か数ミクロンの微生物がわれわれに珠玉の真実を教えてくれたのである。

裁判において重視されなければならないのは客観的な証拠である。人には嘘や思い違いがある。しかし、物は嘘をつかない。慎重かつ適切に管理された証拠物はなにがしかわれわれに真実の断片を語ってくれるものである。個人の人生に決定的な影響を与える刑事裁判においては、このような証拠が語る真実にわれわれは謙虚に耳を傾けるべきである。いわんや二転三転し、言い逃れや苦し紛れの嘘を平気で言うような証人の証言に惑わされて、客観的な証拠が語る珠玉の真実を軽視するようなことはあってはならない。このような証拠物に対する謙虚な姿勢をとるならば、われわれにとって次のことは既に明らかであろう。

佐藤修一はトリカブトで死んではいない。彼は利根川で溺死したのである。


[1] 例えば、『死体検死医』(角川書店、1997年)、p42;『死体は生きている』(角川文庫、1996年)、p230;『死体の叫び』(ぶんか社、2001年)、p78;『ずっと死体と生きてきた』(KKベストセラーズ、2001年)、pp88、90。

[2] 錐体は頭蓋骨の一部で、内耳や外耳を取り囲むようになっている。上野は、鼻から入った水が、激しい呼吸運動のため耳管内部でピストン運動をするので、その部分に出血やうっ血が起こる、と考えている。

[3] 臓器を細切れにして、発煙硝酸や濃硫酸などを加えて有機物を分解して、珪藻の殻の部分だけが残るようにする。

[4] 容器に入れてしばらく放置したり、遠心分離をして沈殿物がなくならないように上澄みだけ取り除く。これで濃縮液を作る。

[5] 何川涼他「水に関係ある死体とプランクトン検査の法医学的考察」314頁に、ゴムホースで水道水を口に流し込まれて死亡した事例のプランクトン検査結果が掲げられている。それによると、グラムあたり、左肺0、右肺0.14、肝0、左腎0、右腎0.02で、水道水は100ml中6個である。

[6] 体表面と肺とは異なりうるが、肺には河川水がそのまま入るのであるから、同じく河川水に直接接する体表面に付着したプランクトンの構成と肺内のそれとは同一視できる。

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