第1章 溺死

・「上野回答書は採用できない」

 

「少なくとも溺死ではない」と言った上野回答書を判決は一蹴した。

 上野によれば,佐藤が少なくとも溺死ではないと判断する根拠は,①溺死する際いったん川底に沈んで流れたときできるはずの擦過傷がない,②28キロメートルも水中に没して流されている間に硬直が緩解して脱げてしまうはずの着衣が脱げていない,③錐体内に出血,うっ血がない,④胃内容が30ミリリットルと少ない,⑤肺重量が比較的軽く,胸腔内液の量が少ない,という点にあるという。このうち,③については,上野自身,溺死体においてこのような症状が認められるのは約半分にとどまるというのであるから,これをもって溺死か否かの判断要素とすることができないことは弁護人主張のとおりと思われる。また,①②についても,状況によっては傷が生じない場合も,着衣が脱げない場合もあり得ると考えられるから,この点を溺死かどうかの判定に使うことには疑問がある。④⑤は,一応溺死を否定する方向に働く要素であるということができるものの,例外があり得ないものではないと考えられるだけに,これらの事実だけから溺死ではないと判断することは困難というべきである。そうすると,上野鑑定をそのまま採用することはできないといわざるを得ない。

こうして、溺死を否定する唯一の根拠は失われた。にもかかわらず、判決は佐藤の死因をアコニチン系アルカロイド中毒と認定している。それはどうしてだろうか。

 

・「溺死とは断定できない」

 

われわれはプランクトン検査の結果は佐藤が溺死したことを示す決定的な証拠だと思う。しかし、裁判官はそうじゃないという。判決文を見てみよう。判決はまずプランクトン検査の有用性に疑問を投げかける。

 しかしながら,前記のとおり,佐藤の遺体を解剖した齋藤がプランクトン検査の有用性を全く認めていないことからも窺われるように,プランクトン検査が溺死かどうかの判断をする上において決定的,あるいは有効であるかどうか自体がなお法医学会[ママ]で議論の対象とされているようであり,そのことは,齋藤が当公判廷で披瀝した見解や,弁護人の提出した外国文献(バーナード・ナイト「法医病理学」)において,「溺死の診断における珪藻類の使用ほど議論の対象とされたトピックはない。」と記述され,さらに,デンマークの学者が溺死した死体と溺死でない死体を詳細に調査して,プランクトン検査は溺死判定に全く根拠とならないと結論付けた例が挙げられていることなどからも明らかである(弁護人が挙げるその他のプランクトン検査の有効性を主張する日本語文献は比較的古いものが多く,且つ,特定の学派が主張している見解であることが窺われ,それが法医学会[ママ]の定説であるとまでは認め難い。)。したがって,プランクトン検査の結果により溺死かどうかの判断をすることができるとする弁護人の主張はそれ自体疑念があるといわなければならない。

 

齋藤や上野がプランクトン検査の有用性を否定する理由として挙げているものが、全く根拠とならないことは既に詳細に論じたとおりである。そのことをわれわれは最終弁論でも指摘したのである。それなのに、判決はわれわれの指摘を無視して、齋藤が有用性を否定するから有用性に疑問があるなどと言う。こういう態度では意味のある議論は成立しないだろう。

確かに、ナイトはプランクトン検査ほど議論の対象とされたトピックはないと書いている。議論の対象とされたということと、それが科学的に誤りであることとは全然別である。ナイトはプランクトン検査の有用性を支持し、『法医病理学』の巻末付録として、プランクトン検査の実技の解説を書いている(Knigth 1996 pp589-590)。「デンマークの学者」の論文というのは、フォグドが1983 年に発表した「珪藻と溺死――再論」という論文である。この論文は、非溺死体4体とフィヨルド地帯で溺死した4体の諸臓器に含まれる珪藻類を比較して、有意な差は認められなかったので、プランクトン検査は溺死診断に有用ではないと結論している(Foged 1983)。しかし、この研究には根本的な欠陥がある。溺死体については死亡地の記載があるが、非溺死体についてはどこで亡くなったのか全く触れていない。そして、溺死体について臓器に含まれる珪藻の構成と対照水に含まれる珪藻の構成との比較が全く行なわれていない。フォグドは食べ物や空気中にも珪藻類が含まれると指摘している。しかし、既に述べたように、これも対照となる河川の珪藻との比較を行うことによって識別が可能なのである。結局、この研究は、上野が医学生だった頃にやった実験と大差はない。

判決は、プランクトン検査の有効性を主張する文献は「比較的古いものが多[い]」とか「特定の学派が主張している見解である」などと言っている。これはとんでもない言いがかりである。法医学の標準的な教科書には全て溺死診断の方法としてプランクトン検査の記述がある。2001年12月に出版された吉田謙一『事例に学ぶ法医学』にも書いてある。われわれはこの著書の抜粋も証拠として提出したのである。3人の裁判官たちはわれわれの証拠には関心がないのだろうか。

次に判決は「汚染の可能性」を指摘する。齋藤は同じメス、ハサミ、軍手などで様々な臓器に触れているから「摘出保存された臓器に遺体の外表等に存在したプランクトンが付着するなどして汚染された可能性は十分にあったものと考えられる。したがって,前記の前提はこの時点で既に崩壊しているといわなければならない」と。メス、ハサミ、軍手の3つの中で臓器の実質部分に侵入する可能性があるのはメスとハサミである。これらの道具は臓器を摘出するときに使用される。齋藤はどういう順番で臓器を摘出したのか。心臓→腹部諸臓器→肺と気管の順である(齋藤証言)。利根川のプランクトンを吸い込んだ肺や気管は一番最後に摘出されているのである。これらの臓器の内部に触れた後のメスやハサミが腎臓に触れることはなかったのである。問題なのは軍手であろう。しかし、軍手が臓器の実質に深く入り込むことはありえない。軍手が触れることができるのは外表部のみである。そして、仮にメスやハサミによってプランクトンが付着したのだとしても、その切断面付近(後にホルマリンに浸漬される部分)を取り除くことは可能である。だから、埼玉県警の科捜研はホルマリンに浸漬された外表部分を切り取ってその内部のみを検体としたのである。これらのこともわれわれは最終弁論で指摘した。

判決は、野澤が腎臓に窪みがあり外表部分を充分に取り除くことができなかったかもしれないと証言したことも取り上げている。これについても先に指摘したとおりである。野澤はその事実を報告書に書いていない。報告書には「ホルマリンに接していない部分を取り分けた」としか書いていない。野澤は法廷で突然そのような証言をしたのである。判決は、野澤の証言の経過についてはまったく触れていない。

判決は、「当該珪藻類の殻が血液循環にのって臓器に達したものであるとすれば,一つの臓器だけから検出されて,他の臓器からは検出されないということは通常あり得ない事態と考えられる」と言い、その根拠としてわれわれが提出した文献(何川他1988)のデータを挙げる。確かに、この論文が挙げている5件の溺死のデータでは最低でも1g当たり1個のプランクトンが発見されており、0個というデータはない(表1‐1参照)。それでも、臓器によって非常に大きなばらつきがある。そして、このデータはわれわれが裁判所に提出した数あるデータの中の1つに過ぎないのである。われわれは、溺死体における珪藻類の分布に関して5種類の文献を提出した。そのいずれにおいても、肺以外の臓器からはグラム当たり「0」とか「0.5」というようにコンマ以下の数字の珪藻しか発見されなった事例が紹介されている。すでに述べたように、この問題を最も詳細に研究した新沢論文は肺以外の臓器中の珪藻数は「各臓器1g当たり1個前後」の場合が多いと結論している(新沢他1957)。肝臓から発見されず、腎臓から1g当たり2.39個というデータは溺死のデータとして決して珍しいものではないのである。裁判官たちは、有罪判決にとって都合の良いデータだけを取り上げて、ほかのデータを黙殺した。そうとしか言いようがない。

佐藤の腎臓から発見された珪藻はいずれも小さいものあるいは細長いもの――肺胞壁を通過できるもの――ばかりである。この点について判決はこう言う。

***腎臓から検出された珪藻類の数は肺から検出されたそれと比較して極めて少数であることなどに照らすと,たまたまそのような形状の珪藻類が検出されたにすぎない可能性もあり,血液循環によって腎臓に到達したものと断定することができないことは明白である。

 

腎臓から発見された珪藻の数は1プレパラートあたり3種類5個体であり腎臓1gあたり2.39個であって、文献にあらわれた溺死のデータから見ても決して「極めて少数」などと言えるものではない。

そして肺(内側)からはグラムあたり2000個以上の珪藻が発見されている。これを肺重量で換算すると肺全体には約160万個の珪藻が存在したことになる。そして肺から発見された珪藻のうち数の多いもの上位4種類の数を合計すると全体の43%に達する。逆に、腎臓から発見された種と同じものの割合は12.5%に過ぎない。佐藤が肺の中に吸い込んだ珪藻は多種多様であり、それらが肺の中に混在していたのであって、珪藻が肺のなかで「棲み分け」することなどありえない。肺にあった珪藻が腎臓に付着したと仮定して、全体の43%、数にして68万個あった多数派の珪藻が1つも腎臓に付着しないなどと言うことがありえるだろうか。そして、少数派の珪藻のなかでも、肺胞壁を通過できる形のものばかりが腎臓に付着するなどという偶然がさらに重なるなどということがありえるだろうか。裁判官たちは一体どのような数学によってそのような「可能性」を肯定したのか。われわれには全然理解できない。

 

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