第2章 トリカブト

3 鑑定結果が意味するもの

 

仮にこれら臓器や毛髪の鑑定が正しかったとして、それが意味するものは何であろうか。

 臓器鑑定の結果によれば、組織1gあたり0.1ng未満のベンゾイルアコニンと、組織1gあたり0.20ng~0.26ngのベンゾイルメサコニンが検出されたという。

 いわゆる沖縄のトリカブト殺人事件についての東京高等裁判所平成10年4月28日判決(判例時報1647号53頁)は、トリカブト毒が血液濃度と同様に体内に一様に分布していたと仮定して、単純に心臓血のトリカブト毒の濃度に被害者の推定体重を乗じて、身体に投与されたトリカブト毒の量を推定した。トリカブト成分が血液以外の全身に一様に分布するとは限らないので、その前提には疑問があるが、仮に組織中のトリカブト毒の濃度が体内に一様に分布していたと仮定して、この計算式を本件に当てはめると、単純に佐藤の体重約50kg[2]を乗じても、0.005mg未満のベンゾイルアコニンと0.01mg~0.13mgのベンゾイルメサコニンにしかならず、さいたま地裁判決が採用したアコニチン系アルカロイドのヒト致死量の1~2mgには遠く及ばない[3]

 アコニチン系アルカロイドは、死体が水中にある間に流出したり、臓器が保管されていたホルマリン水溶液に流出することがある。現在までのところ、この流出のスピードがどの程度のものなのかは明らかになっていない。だから、検出された濃度が致死量に達していないからと言って、摂取した量が致死量未満だと断定できるわけではない。しかし、逆に、致死量に達していたと推測する根拠もまったくないのである。要するに、臓器から検出されたアコニチン系アルカロイドの量から、佐藤が生前摂取したアコニチン系アルカロイドの量を推定することは不可能である。したがって、仮に臓器鑑定の結果が100%正しいとしても、それは平成7年6月3日に佐藤が致死量のトリカブトを摂取したことを示していることにはならないのである。

 毛髪鑑定の結果もまた同じである。

毛髪は表皮の外に出ている毛幹と皮膚の中に6mm前後埋まっている毛根から成る(図2-4参照)。

皮膚と毛根

図2-4 皮膚と毛根

 

毛髪は、毛根部にある毛母細胞が次々に作られ、そこから押し出されるようにして成長する。そして、毛髪が毛母細胞によって作られてから表皮の上に現れるまでの時間は3日間から5日間ぐらいとされている(中原・第63回証言調書)。したがって、ヒトが薬物を摂取した場合、血液中に入った薬物が毛乳頭を通じて毛母細胞に入って毛髪中に取り込まれ、それが表皮の外に現れるのには3日から5日くらいかかることになる。

鑑定資料の毛髪は、頭皮の近くでカットしたもの、つまり表皮よりも上の部分で切断して採取したものだという。そうすると、鑑定資料の毛髪からトリカブトの成分であるメサコニチンが検出されたということは、それは遅くとも佐藤が亡くなる3日から5日くらい前に摂取したことになる。逆に言えば、佐藤はメサコニチンを摂取した後、少なくとも3日から5日間生存していたことになる。中原も、毛髪鑑定の結果からは、佐藤が死亡当日にトリカブトを摂取したことは分からないと認めた(第63回証言調書)。

なお、毛髪は人の死後も伸びるという俗説があり、中原も「そういうことがあるということは聞いたことがある」などと証言した。しかし、これは法医学的にはありえない話である。人が死亡すると心臓が止まって毛根部への血液循環もなくなり、毛髪が成長する毛母細胞の増殖は不可能であるから、死後に毛髪は成長しない。これは法医学の常識である(池本1999p57齋藤一之・第67回証言調書)。毛髪分析の専門家であるはずの中原が、毛髪が人の死後も伸びると思っているようでは、同人の鑑定の信用性も知れているのではないだろうか。

さすがに、さいたま地裁判決も「本件では、科学捜査の結果によっても、佐藤の死因がトリカブト中毒によるものと一義的に明らかになっているわけではない」ことを認めた。それを認めたうえで、裁判官は「[トリカブトの]摂取の時期が死亡直前であったとしてもそれ[鑑定結果]と矛盾することはない」と言うのが精一杯であった。要するに、さいたま地裁判決は、科学的な証拠からは佐藤の死因は分からない;だから、トリカブト中毒が死因であると考えても構わない;武まゆみが佐藤をトリカブトで殺したと証言したのであるから、佐藤はトリカブトで死んだと考えてよい、というのである。この論理はどこか変な感じがしないだろうか。殺人事件における死因というものは、客観的な証拠によって決定されるべきではないだろうか。客観的な証拠がトリカブト殺人を積極的に裏付けておらず、単にそれと「矛盾しない」というだけであれば、それは証拠がないのと同じことではないだろうか。結局、さいたま地裁の裁判官は、物的証拠の裏付けのない、武まゆみの証言だけでトリカブト殺人を認定したことになる。

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