第2章 トリカブト

・検査の正確性

 臓器からトリカブト毒の成分が検出されたというものの、その量は組織1gあたり0.1ng未満とか0.20ng~0.26ngと極微量である。1ng(ナノグラム)は10億分の1gであるから、0.1ngは100億分の1gとなる。1mlあたり0.1ngという量は、長さ50m×幅2m×深さ1mの大きさのプールの水に耳かき1杯分(10mg)を溶かした濃度の超微量の世界である。そのため、分析で使う標準試料と鑑定資料は厳密に区別して管理し、決して混入(汚染)したりしないように注意する必要がある。

 ところが、科捜研が行った高速液体クロマトグラフィーには次のような落とし穴があった。この分析方法は、極細の筒状のカラムに溶媒と試料を通過させ、時間の経過とともに物質毎に分離される性質を利用して、既知の標準試料と鑑定資料を構成する物質の同定をみるものであるが、鑑定では、まず純度99%以上のアコニチン等を用いた標準試料をカラムに通して分析した後に、その同じカラムに臓器から抽出した鑑定資料を通して分析している。そして、同一のカラムを用いているにもかかわらず、標準試料を分析した後、鑑定資料を分析するまでの間にはカラムにブランクと呼んでいる溶媒を注入するだけで、特にカラムの洗浄は行っていないという。しかも、分析はオートサンプラーという分析試料を自動的に注入する装置にセットして行っており、鑑定技官が常時立ち会って分析装置が正常に動作しているかどうかを監視しているわけでもない。

 100億分の1gという超微量の物質を分析する世界では、標準試料の極小飛沫が残存していただけでも、それが鑑定資料の分析結果に大きな影響を与えてしまうことになる。すなわち、標準試料のベンゾイルアコニンやベンゾイルメサコニンがカラムの中に残っていると、その次に行われた鑑定資料の分析で標準試料の分析で残ったベンゾイルアコニンやベンゾイルメサコニンが検出されてしまい、臓器の鑑定資料からベンゾイルアコニンやベンゾイルメサコニンが検出されたとは言えなくなってしまうのだ。

 鑑定を行った技官は、各試料を分析する間にブランク(溶媒)だけを注入し、分析後のブランクのデータに異常が認められなかったので、鑑定資料の分析には標準試料による汚染はなかったと証言した。しかし、ブランクのデータは鑑定書に添付されておらず、ブランクを注入したことも、汚染がなかったというのも、鑑定した本人がそう証言しているだけである。当然、私たちはブランクのデータを開示するように要求した。しかし、ブランクのデータをプリントアウトして提出するのは至極簡単なはずであるが、検察側はデータの開示に応じなかった。そのため標準試料による汚染があったかどうかは未だ確認できていない。

 ところが、またしても判決は、「鑑定書にブランクテスト・データが添付されていないのは弁護人指摘のとおりであるが,宮口証言等によれば本件の鑑定を実施する過程においてブランクテストを行っていることは明白であり,このテストで汚染が確認されれば,そもそも鑑定自体が成り立たないものであって,鑑定書自体にこれに関するデータが添付されていないからといって,そのことから直ちにその鑑定書の信用性が否定されるというものではない。」と、科捜研の技官が異常はなかったと言ったのだから間違いないという論法で済ませてしまっている。プランクトン検査については、鑑定資料となった臓器について、いとも簡単に汚染の可能性があるとした態度と大違いである。

 それだけではない。これら臓器の鑑定結果にはかなり怪しい点がある。というのは、正常な保持時間のピークはきれいなピラミッド型を描くが、鑑定資料を分析した保持時間データのピークには、不純物の混在を示すピーク割れと見られる部分があるからである(例えば図2-3のピーク3について言えば、頂点の両側に小さなピークが見られる)。

クロマトグラフ

図2-3 鑑定資料(腎臓)のベンゾイルアコニンのクロマトグラフ

 

この点、分析を行った宮口技官は、「ピークが現に割れそうなんで,ピーク割れと言えばそうでしょうけれども,確かに厳しい,ぎりぎりプラスぐらいなピークではありますが,私はこれをピークと判断しました」と言うのだ(第62回証言調書)。

要するに、正常なピークなのか、それとも不純物の混在を示すピーク割れなのかという判断は相当に微妙なのである。

また、標準試料の保持時間データのピークと鑑定資料のそれとは完全に一致しているというわけではなく、ズレが見られる。しかし、そのズレのあるデータを同じものと判断できるかどうかの基準について、宮口は、「決まりがあるのかもしれませんが,私はそれについては知りません。」(第62回証言調書)と、はっきりとした基準があるわけではないという。ピークが同一であるのかどうかの判断がまったく主観的なものになってしまっているのである。

後に詳しく述べるように、武まゆみは平成12年6月30日の取調べで佐藤にトリカブトを与えていたという供述をしているのであるが、科捜研への臓器鑑定の嘱託がその武供述よりも後の同年7月17日になされたこと、そして科捜研が県警本部に所属していることを考えると、鑑定者が微妙な判断をする際に、トリカブト殺人を立証したい捜査官の期待に応えようという心理が働いた可能性を拭い去ることはできない。

ところが、判決は、「含有物質の判定は,保持時間のピークが一致するかどうかだけではなく,ピーク時におけるスペクトルの比較も行い,特徴的なフラグメントがあるかないかの観察もした上でなされていることが認められる。したがって,主観的で曖昧な判断で物質の存否が決せられているものでないことは明らかであるから,弁護人の主張は失当である」とした。しかし、この点についても疑問がある。

質量分析は、化合物をイオン化させ電磁場に通し、その分子イオンによって運動、振動の仕方が異なる性質を利用して、物質を構成する分子を調べるというものであり、マススペクトルは質量分析によって得られた分子の質量(正確には質量電荷比)を示す。本件で用いられた四重極型質量分析装置は、ある一定の電位をかけた4本の電極の間を、一定の範囲で安定した振動をする分子イオンだけが通過できるようにして、分析したい分子イオンを検出する。

 そして、マススペクトルの見方もそれほど簡単ではない。例えば、質量28の分子としては窒素N2、一酸化炭素CO、エチレンC2H4という複数の物質が考えられるように、質量分析の結果ある質量が得られたとしても、それが何の物質であるかは直ちに特定できない。本件の鑑定書にも検出されたマススペクトルが何の物質を意味しているのかについての説明はない。

  また臓器の抽出液を分析したマススペクトルには、アコニチン系アルカロイドの標準品のマススペクトルと異なるマススペクトルも出ており、それらが他の物質なのかどうか不明である。さらに、アコニチン系アルカロイドと目されるマススペクトルと他のマススペクトルとを組み合わせて考えたとき、アコニチン系アルカロイド以外の物質を構成する可能性を全く否定することはできない。鑑定書にはその説明もない。

 そうしてみると、マススペクトルの比較をしたという点についても、判決が言うほど決定的なものとは言えないように思われる。

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