特別抗告を申し立てました

 

2015年8月5日、東京高裁の即時抗告棄却決定に対する特別抗告を申し立てました。

特別抗告申立書

即時抗告審の最大の争点は佐藤氏の死因がトリカブト中毒なのか、それとも溺死なのかというものでした。弁護人は2人の法医学者(大野教授と中嶋教授)の鑑定書を提出しました。いずれの鑑定書も佐藤氏の死因は溺死であると結論付けています。いずれの死因かわからないとか、溺死かもしれないとか、そういうあいまいな結論ではありません。1人は日本医大、もう1人は東大の法医学教室に所属する専門家です。八木さんとも弁護団とも何の利害関係もありません。

そして、即時抗告審では、東京高裁刑事10部が自ら、新たな法医学者(A教授)に死因鑑定を嘱託しました。A教授の結論は、「佐藤氏の直接死因は溺死であると判断する」というものでした。裁判所が独自に鑑定を委嘱することは極めて珍しいことです。A教授は、国立大学の法医学教室に所属する溺死鑑定の専門家です。「溺死」のキーワードで論文検索をすれば数多くヒットしますし、国際的な学会でも活躍しています。もちろん弁護側とも検察側とも何の利害関係もありません。今回初めて本庄事件に関与した方です。

法医学者は一般に死因について慎重です。分からない時は結論を明言しません。3名の中立の法医学者が、それぞれ独自の判断過程に基づいて、佐藤氏の死因は溺死であると明言したのです。佐藤氏の死因がトリカブト死であることに「合理的な疑い」があることは明らかでした。

しかし、東京高裁は、3名の法医学者を誰一人尋問することなく、いずれの鑑定も合理的ではないと切り捨てました。この判断には大きく2つの致命的な問題があります。

1つは「疑わしきは被告人の利益に」原則を無視している点です。東京高裁が有罪を維持する理由づけは、以下のように立証責任を完全に被告人に転換するものです。

「当審で取り調べた資料を併せ検討しても・・第一審判決及び控訴審判決で指摘されていた試料汚染の可能性はなお払拭できないというほかない。」

「大循環系臓器について・・臓器内部への汚染の可能性も払拭できないにもかかわらず,本件検査による腎臓,A鑑定による腎臓内側,心臓内側から検出された珪藻類については汚染によるものではなく,専ら肺から血中に侵入し腎臓,肝臓,心臓に分布したものと断定し得るのかは疑問が残るというほかない」

「汚染の程度のみならず上記問題点の結論に及ぼす程度のいずれもが不明である以上,大野鑑定の前提についての疑問は払拭し難いというべきである」

「試料汚染の可能性が払拭できないという状況に変わりはない。その上で,臓器から検出された珪藻類の個数」が「少数にとどまることに照らすと,これらが汚染によるものではなく,肺から血中に侵入し,血液の循環により腎臓,肝臓や心臓に分布したと断定し得るだけの根拠はないというほかない。そうすると,A鑑定に依拠することはできない」

 

東京高裁の理由づけは、「汚染の可能性を払拭できない。だから汚染ではなく溺死によってプランクトンが大循環系に到達したと断定することはできない」というものです。つまり、汚染が死因判断に及ぼす可能性を、弁護人が完全に払拭しなければ無罪とならないことを前提としているのです。

これは明らかに「疑わしきは被告人の利益に」原則を誤って用いています。正しく用いて棄却するのであれば、理由づけは「溺死によってプランクトンが大循環系に到達したとする鑑定は、不合理である」から「合理的な疑い」はない、というものでなければならないはずです。しかし、A教授を含む3人の鑑定はいずれも「不合理」などということのできない説得的なものでした。そのため、東京高裁は、「間違いなく溺死とは断定できない」ということを理由として、有罪認定を維持したのです。このような判断枠組では誰でも有罪となってしまいます。刑事裁判の鉄則とも言われる原則が、踏みにじられているわけです。

 

もう1つの問題は、科学の軽視・無視という点です。東京高裁は両教授の鑑定について、中には検察官すら指摘していない問題点を独自に思い付き、その思い付きの方が正しいと決めつけています。専門家の判断より自分の方が専門的領域について正しい判断をできる、というわけです。

特に問題なのが、汚染に対する態度です。A教授は、事前に汚染の影響が懸念されたことから、詳細に汚染の可能性やその影響を検討したうえで溺死と判断しています。その判断過程は極めて説得的ですが、仮に裁判所が疑問を抱いたのであれば教授に直接尋ねればよいはずです。しかし東京高裁はA教授の尋問を実施せず、一部は他の専門家の知見や文献にすら頼らずに独自の思い付きを並べ立て、A教授の鑑定内容は信用性できないと断じたのです。これほど科学を、専門家の知見と労力を見下した態度があるでしょうか。裁判官は法医学について素人です。自分で判断できるならば、税金を投じ、唯一の証拠であった臓器を消費して、数カ月の期間をかけてA教授の専門的判断を仰ぐ必要はなかったはずです。都合の悪い専門家の意見は無視することが許されるならば、裁判の意味はありません。裁判などせず有罪とすればよいだけです。時間も税金もよほど節約できます。

刑事裁判の鉄則を無視し、科学的知見を無視する今回の決定を確定させることは正義に反します。弁護団は冒頭のとおり特別抗告を申し立てました。是非ご一読ください。最後に、さいたま地裁の原決定に対する大野教授の意見を引用します。この指摘は今回の東京高裁の判断にも全く同じようにあてはまると考えています。

 

多くの論文や教科書で溺水への珪藻の検査の妥当性や有用性が強調されているにもかかわらず、また、多くの溺水の解剖鑑定書で壊機試験が行なわれ、診断の根拠とされているにもかかわらず、また、水深1~1.5mで死後、肺に水が浸入し、珪藻が多量に検出されると結論するのは、裁判官個人がそう考えるのは自由であるが、これを人を裁く裁判の場で、しかも有罪の根拠とされるとなると許されざる暴挙としかいいようがない。

 

そのように反論するのであれば、堂々と法医学者の前で学会で演題として発表し、議論をすべきでる。それができないのであれば、我々法医学者から直接解説を聞くべきである。それをしないで、単に机上の論文の好都合な部分を切り取り繋いで、科学的に広く認められている事実を一方的に否定するのであれば、これはガリレオの地動説を否定した暗黒裁判と同様である。そうなれば、もはや我々科学者は裁判に一切協力できない。どうぞ、思うように判決していただきたい。死体における珪藻検査も有用性も認められないのなら、我々はこれらの検査を行なわないことを全国の法医学者に広く提言し、現在、警察庁から支給されている珪藻検査に対する検査料の受領も根拠がないので返納せざるをえなくなる。そればかりか、司法解剖をすること自体も、裁判官によって結論が恣意的に曲解されるのであれば、その妥当性や有用性を議論するまでも無く、まったく不要となる。少なくとも科学者たる大学人が行なう必要性はないこととなるが、それでもよろしいのであろうか。

 

それだけ、今回の決定には看過しがたい重大な過誤が存在するのである。このような重大かつ不適切な決定をこのまま放置し、歴史に汚点を残すわけにはいかない。これだけは、この意見書を読むべき法曹人はどうか理解していただきたい。

 

 

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